三は蹄に合わせ、次々に追分を唄って行った。彼の心は楽しかった。彼の心は晴れ渡っていた。……恋の競争者の富士甚内が、追分を見捨てて立ち去るのであった。お北を見捨てて立ち去るのであった。もうこれからは油屋お北は彼一人の物となろう。これまでは随分苦しかった。人知れず心を悩ましたものだ。相手は立派なお侍《さむらい》、殊に美貌で金もあるらしい。それがお北に凝《こ》っていた。そうしてお北もその侍に、心を奪われていたものだ。宿の人達は噂した。いよいよ甚三は捨てられるなと。誰に訴えることも出来ず、また訴えもしなかったが、心では悲しみもし苦しみもした。訴えられない苦しさは、泣くに泣かれない苦しさであった。泣ける苦痛は泣けばよい。訴えられる苦痛は訴えればよい。人に明かされない苦しさは、苦しさの量を二倍にする。宿の人達にでも洩らそうものなら、その人達はいうだろう、街道筋の馬子風情が、油屋の板頭と契るとは、分《ぶん》に過ぎた身の果報だ。捨てられるのが当然だと。では妹にでも訴えようか、妹お霜は唖《おし》であった。苦楽を分ける弟は、遠く去って土地にいない。神も仏も頼みにならぬ。……富士甚内が追分宿の、本陣油屋へ泊まって以来、甚三の心は一日として、平和の時はなかったのであった。……しかし今は過去となった。苦痛はまさに過ぎ去ろうとしていた。富士甚内がお北と別れ、追分宿を立ち去りつつある。すぐに平和が帰って来よう。これまで通り二人だけの、恋の世界が立ち帰って来よう。……
 甚三は声を張り上げて、次から次と唄うのであった。馬上では甚内が腕|拱《こまね》き、じっと唄声に耳を澄まし、機会の来るのを待っていた。
「もうよかろう」と心でいって、四辺《あたり》を窃《ひそ》かに見廻した時には、追分宿は山に隠れ、燈《ともしび》一つ見えなかった。おおかた二里は離れたであろう。左は茫々たる芒原《すすきはら》。右手は谷川を一筋隔て、峨々たる山が聳えていた。甚内は拱いた腕を解くと、静かに柄を握りしめた。知らぬ甚三は唄って行った。今はひとのために唄うのではない。自分の声に自分が惚れ、自分のために唄うのであった。
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追分油屋掛け行燈《あんどん》に
浮気ご免と書いちゃない
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 甚内はキラリと刀を抜いた。

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浅間山さんなぜやけしゃんす
腰に三宿持ちながら
[#こ
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