見よう」銀之丞は立ち上がった。
「何、行って見よう? どこへ行くのだ?」
千三屋相手に碁を囲んでいた、平手造酒は振り返った。
「追分を聞きにだ、行って見よう」「今夜に限って酷《ひど》く熱心だな」「いつもと唄い振りが異うからだ」「そいつはおれには解らない」「行って見よう。おれは行くぞ」「何に対しても執着の薄い、貴公としては珍らしいな」「だんだん遠くへ行ってしまう。おいどうする、行くか厭か?」「さあおれはどっちでもいい」「おれは行く。行って聞く。後からこっそりついて行って、堪能するまで聞いてやろう」「全く貴公としては珍らしい。何に対しても興ずることのない、退屈し切ったいつもに似ず、今夜は馬鹿に面白がるではないか」「それがさ、今もいった通り、今夜に限って甚三の歌が、ひどく違って聞こえるからだ」「いつもとどこが違うかな?」「鬱《うっ》していたのが延びている。燃えていたのが澄み切っている。蟠《わだか》まっていたのが晴れている。いつもは余りに悲痛だった。今夜の唄い振りは楽しそうだ。心に喜びがあればこそ、ああいう歌声が出て来るのだろう。めったに一生に二度とは来ない、愉快な境地にいるらしい」「ふうん、そんなに異うかな。どれ一つ聞いて見よう」
造酒は碁石を膝へ置き、首を垂れて聞き澄ました。次第に遠退き幽《かす》かとはなったが、なお追分は聞こえていた。節の巧緻声の抑揚、音楽としての美妙な点は、武骨な造酒には解らなかった。しかしそれとは関係のない、しかしそれよりもっと[#「もっと」に傍点]大事な、ある気分が感ぜられた。しかも恐ろしい気分であった。造酒はにわかに立ち上がった。
「観世、行こう。すぐに行こう」そういう声はせき立っていた。
「これは驚いた。どうしたのだ?」
「どうもこうもない捨てては置けぬ。行ってあの男を助けてやろう」「ナニ助ける? 誰を助けるのだ?」「あの追分の歌い手をな」「不安なものでも感じたのか?」「陰惨たる殺気、陰惨たる殺気、それが歌声を囲繞《とりま》いている」「それは大変だ。急いで行こう」
ありあう庭下駄を突っ掛けると、ポンと枝折戸《しおりど》を押し開けた。往来へ出ると一散に、桝形の方へ走って行った。さらにそれから右へ折れ、月|明《あき》らかに星|稀《まれ》な、北国街道の岨道《そばみち》を、歌声を追って走って行った。
馬上ながら斬り付けた
こなた甚
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