たらよかろうか? 女の心を引きつけている、不思議な追分の歌い手を、永遠にお北から遠避けなければならない。そのほかには手段はない」
これが甚内の心持ちであった。「よしそうだ、やっつけよう!」
冷えた盃を取り上げると、つと唇へ持って行った。
河鹿の鳴く音《ね》は益※[#二の字点、1−2−22]冴え、夏とはいっても二千尺の高地、夜気が冷え冷えと身にしみて来た。
「お北、それではまたあおう」
「おあいしたいものでございます」
「すぐにあえる、待っているがいい」
「早くお帰りくださいまし」
いつもと異《ちが》う歌の節
頼んで置いた甚三が、馬をひいて迎えに来た、それに跨がった甚内がいた。北国街道を北へ向け、桝形の茶屋を出かけたのは、それから間もなくのことであった。
間もなく追分を出外れた。振り返って見ると燈火《ともしび》が、靄《もや》の奥から幽《かす》かに見えた。
「旦那様」と不意に甚三がいった。「いよいよご出立でございますかな」
「うん」と甚内は冷やかに、「追分宿ともおさらばだ」
「永らくご滞在でございましたな」「意外に永く滞在した」「旦那様と私とは、ご縁が深うございますな」「縁が深い? それはなぜかな?」「宿までご案内致しましたのはこの甚三でございます」「そうであったな。覚えておる」「お送りするのも甚三で」「そういえば縁が深いようだ」「ご縁が深うございます」「ところで甚三われわれの縁は、もっと深くなりそうだな」
「え?」といって振り返った時には、甚内は口を噤《つぐ》んでいた。押して甚三も尋ねようとはしない。カパカパという蹄の音、フーフーという馬の鼻息、二人は無言で進んで行った。
「甚三、追分を唄ってくれ」しばらく経って甚内がいった。
「夜が深うございます」
「構うものか、唄ってくれ」「私の声は甲高で、宿まで響いて参ります」「構うものか、唄ってくれ」「よろしゅうございます、唄いましょう」
やがて甚三は唄い出した。夜のかんばしい空気を通し、美音朗々たる追分節が、宿の方まで流れて行った。
「甚三の追分が聞こえて来る。はてな、いつもとは唄い振りが異《ちが》う。……うまいものだ、何んともいえぬ。……今夜の節は分けてもよい」
こういったのは銀之丞であった。
本陣油屋の下座敷であった。彼は相変らず寝そべっていた。鼓が床の間に置いてあった。
「おい平手、行って
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