!」むせぶような声であった。「ああ、あなたこそ妾《わたし》にとって、本当の恋人でございます」
「おれのどこが気に入ったな?」嘲笑うような調子であった。
「ただれたような美しさが!」「おれがもしも悪党なら?」「その悪党を恋します」「おれがもしもひとごろしなら?」「そのひとごろしを恋します」「おれがもしも泥棒なら?」「その泥棒を恋します」「おれがお前を殺したら?」「わたしは喜んで死にましょう」「ではなぜおれについて来ない?」「申し上げた筈でございます」
「お北!」と甚内はさぐるようにいった。「もし追分が未来|永劫《えいごう》、お前の耳へ聞こえなくなったら、その時お前はどうするな?」「その時こそわたし[#「わたし」に傍点]というものはあなた[#「あなた」に傍点]の物でございます」「言葉に嘘はあるまいな」「何んのいつわり申しましょう」「その言葉忘れるなよ」「はいご念には及びませぬ」
甚内は満足したように、不思議な微笑を頬に浮かべた。……思えば奇怪な恋ではあった。これというさしたる[#「さしたる」に傍点]あてもなく、追分宿へやって来て、本陣油屋へとまった夜、何気なくよんだ遊女に恋し、また遊女にも恋されながら、その女がいうこと[#「いうこと」に傍点]を聞かぬ。殺すといえば殺されようという。それほどの恋を持ちながら、にげようという男の言葉を、すげなく女はことわるのであった。外におとこがあるからでもあろうが、おとこその者には心をひかれず、その歌に心ひかれるのだという。立ち去るといえば立ち去れという。捨てたのかといえば捨てはしないという。そういう言葉には嘘はない。不思議な恋の三すくみ! 女が死ねば恋は終る。どっちか一人男が死ねば、いきた方が女を獲る。所詮一人は死ななければならない。そうでなければ苦しむばかりだ。
「いっそ自分が立ち去ったなら、万事平和に納まろうが、この女ばかりは放されぬ」これが甚内の心持ちであった。「天下の金は自分の物だ。金には何んの苦労もない。有難いことには自分は美貌だ。これまでほとんど至る所で、色々の女を征服もし、また女に征服もされた。女の秘密もおおかたは知った。与《くみ》し易《やす》いは女である。しかるに意外にも意外の土地で、意外の女とでっくわした。類例のない女である。だから自分には珍らしい。珍らしいものはほかへはやれぬ。是非征服しなければならない。ではどうし
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