ていたが、やがてシクシク泣き出した。聞くことも出来ずいうことも出来ない、天性の唖ではあったけれど、女の感情は持っていた。可愛がってくれた甚内が、遠い他国へ行ったことも兄の甚三がお北という、宿場女郎に魅入《みい》られて、魂をなくなしたということも、ちゃんと心に感じていた。それがお霜には悲しいのであった。

    出合い頭《がしら》にいきあった二人

 絹|商人《あきんど》の千三屋は、ザッと体へ拭いを掛けると、丸めた衣裳を小脇にかかえ、湯殿からひょいと廊下へ出た。とたんにぶつかった者があった。「これは失礼を」「いや拙者こそ」双方いいながら顔を見合わせた。剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を着た、眼覚めるばかりの美男の武士が、冷然として立っていた。
「とんだ粗忽を致しまして、真っ平ご免くださいまし」いい捨て千三屋は擦り抜けたが、十足ばかりも行ったところで、何気ない様子をして振り返って見た。とその武士も湯殿の口で、じろじろこっちを眺めていた。
「こいつ只者じゃなかりそうだ」こう千三屋はつぶやくと、小走りに走って廊下を曲がり、自分の部屋へ帰って来たが、どうも心が落ち着かない。「途方もねえ美男だが、美男なりが気に食わねえ。まるで毒草の花のようだ。よこしまなもの[#「よこしまなもの」に傍点]を持っている。ひょっとするとレコじゃないかな? これまでただの一度でも狂ったことのねえ眼力だ。この眼力に間違いなくば、彼奴《きゃつ》はただの鼠じゃねえ。巻物をくわえてドロドロとすっぽんからせり上がる溝鼠《どぶねずみ》だ」
 腕を組んで考え込んだ。
 剽軽者で名の通っている、女中頭のお杉というのが、夕飯の給仕に来た時である、彼は何気なくたずねて見た。
「下でお見掛けしたんだが、剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を召した、綺麗な綺麗なお侍様が、泊まっておいでのご様子だね」「そのお方なら松の間の富士甚内様でございましょう」「おお富士様とおっしゃるか。稀《まれ》に見るご綺麗なお方だな。男が見てさえボッとする」「ほんとにお綺麗でございますね」「店の女郎《こども》達は大騒ぎだろうね」「へえ、わけてもお北さんがね」「ナニお北さん? 板頭《いたがしら》のかえ?」「へえ、板頭のお北さんで」「噂に聞けばお北さんは、馬子でこそあれ追分の名人、甚三という若者と、深い仲だということだが」「へえ、そうなのでございますよ」「可哀そう
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