緒に立ち上がった。「唄い負かすか負かされるか、かなわぬまでも競って見よう。よし! そうだ!」と厩舎《うまごや》へ走り、グイとませぼう[#「ませぼう」に傍点]をひっ外《ぱず》すと、飼い馬を元気よくひき出した。「さあ確《しっか》り頼むぞよ。パカパカパカと景気よく、ご苦労ながら歩いてくれ。蹄の音に合わせてこそ、追分の値打ちが出るのだからな。乗せるお客も荷もねえが、あると思って歩いてくれ! ハイ、ハイ、ハイ」と声を掛け、自分は手綱を肩に掛け、土間を通って街道へ出た。
 茫々と青い月の光、一路うねうねとかよっているのは、本街道の中仙道で、真《ま》っ直《す》ぐに行けば江戸である。次の宿は沓掛宿で、わずか里程は一里三町、それをたどれば軽井沢、軽井沢まで二里八町、碓井峠の険しい道を、無事に越えれば阪本駅路、五里六町の里程であった。
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西は追分、東は関所
関所越えれば、旅の空
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 咽《むせ》ぶがような歌声が、月の光を水と見て、水の底から哀々と空に向かって澄み通る。甚三の流す追分であった。パカパカパカと蹄の音が街道を東へ通って行った。
「おおまた追分が聞こえるな」
 いうと一緒に肩の鼓を膝の上へトンと置いた。「まるで競争でもするように、俺が鼓を打ちさえすれば、あの追分が聞こえて来る」
 本陣油屋の下座敷、裏庭に向かった二十畳の部屋に、久しいまえから逗留している、江戸の二人の侍のうち、一人がこういうと微笑した。名は観世銀之丞《かんぜぎんのじょう》、二十一歳の若盛りで、柔弱者と思われるほど、華奢《きゃしゃ》な美しい男振りであった。もう一人の武士はこれと異《ちが》い、年もおおかた三十でもあろうか、面擦れのした赭ら顔、肥えてはいるが贅肉《ぜいにく》のない、隆々たる筋骨の大丈夫で、その名を平手造酒《ひらてみき》といった。
 ゴロリと畳へ横になると、「どうも退屈で仕方がない。何をやっても退屈だ。実際世の中っていう奴は、こうも退屈なものか知ら」銀之丞はおはこ[#「おはこ」に傍点]をいうのであった。
「おい観世、また退屈か」造酒はニヤニヤ笑ったが、「何がそんなに退屈かな?」
「何がといって、何もかもさ」
「しかしこの俺の眼から見ると、貴公の退屈は贅沢だぞ」
「なに贅沢? これは聞き物だ」
「まず身分を考えるがいい」
「うん、身分か、能役者よ」
「観世宗家の
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