いつは考えものだぜ」
いわれて甚三は黙ってしまった。身に覚えがあるからであった。
「よしお北さんが飯盛りでも、宿一番の名物女、越後生まれの大|莫連《ばくれん》、侍衆か金持ちか、立派な客でなかったら、座敷へ出ぬという権高者《けんだかもの》、なるほどお前も歌にかけたら、街道筋では名高いが、身分は劣った馬方風情、どうして懇意になったものか、不思議なことと人もいえば、このおいらもそう思う。……だがもうそれは出来たことだ、不思議だきたい[#「きたい」に傍点]だといったところで、そいつがどうなるものでもねえ。おいらのいいてえのはこれからの事だ。あにき[#「あにき」に傍点]、どうだな、思い切っては」
まごころ[#「まごころ」に傍点]をこめていうのであるが、甚三は返辞さえしなかった。ただ黙然と考えていた。
「こいつは駄目かな、仕方もねえ」甚内はノッソリ立ち上がったが、「あにき、おいらにゃあ眼に見えるがな。お前があの女に捨てられて、すぐに赤恥を掻くのがな」行きかけて甚内は立ち止まった。「あにき、おいらは近いうちに、越後の方へ出て行くぜ。おいらの永年ののぞみだからな」
平手造酒と観世銀之丞
甚内はじっとたたずんで甚三の様子を窺った。甚三は黙然と考えていた。その足の先に月の光が、幽《かす》かに青く這い上っていた。かじかの啼く音《ね》が手近に聞こえ、稲葉を渡って来た香《こう》ばしい風が、莚戸《むしろど》の裾をゆるがせた。高原、七月、静かな夕、螢が草の間に光っていた。
「お前の様子が苦になって、思い切っておいらは行き兼るのだ」甚内は口説《くど》くようにいい出した。
「でもおいらは近々に行くよ。海がおいらを呼んでいるからな……おいらには山は不向きなのだ。どっちをむいても鼻を突きそうな、この追分はおれには向かねえ。小さい時からそうだった、海がおいらの情婦《おんな》だった。おれは夢にさえ見たものだ。ああ今だって夢に見るよ。山の風より海の風だ。力一杯働いて見てえ! そうだよ帆綱を握ってな。……もう直《じ》きにお前ともおさらばだ。ああ、だが本当に気が揉めるなあ」
フラリと甚内は出て行った。
顔を上げて見ようともせず、なお甚三は黙然と、下|俯向《うつむ》いて考えていたが、その時またも清涼とした鼓の音が聞こえて来た。
「ああいいなあ」といいながら、ムックリ顔を上げたかと思うと、体も一
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