た。ポンポンポン! ……ポンポンポン! と、例の鼓が反対側から、ハッキリ聞こえて来たのであった。最初彼は茫然として、棒のように突っ立った。それから左へよろめいた。それから両手で顔を蔽うと、廊下の上へつっ伏した。彼の全身は顫え出した。彼の理性は転倒し、考えることが出来なくなった。彼は悪夢だと思いたかった。しかし決して悪夢ではない。
「これはいったいどうしたことだ! ……俺は鼓賊に憑かれている。行く所行く所で鼓が鳴る! ここは銚子だ江戸ではない! ……」彼には起きる元気もなかった。
 と、この時、もう一つ、驚くべきことが行われた。石壁へ縞が出来たのであった。それは一筋の光の縞で、だんだん巾が広くなった。そうしてそこから一道の光が、廊下の方へ射し出でた。そうしてそれがうずくまっている、平八の背中を明るくした。と、その石壁の明るみへ、短い棒切れが浮き出した。つづいて人の手が現われた。それから半身が現われた。種子ヶ島を握った一人の子供が――子供のような片輪者が――すなわち赤格子の腹心の、醜い兇悪な丑松が、秘密の扉を窃《ひそ》かにあけて、様子をうかがっているのであった。
 顔を蔽い、背中を向け、うずくまっている平八には、光の縞も丑松も、見て取ることが出来なかった。……種子ヶ島の筒口が、ジリジリと下へ下がって来た。そうして一点にとどまった。その筒口の一間先に、平八の背中が静止していた。今、丑松の母指《おやゆび》が、引き金をゆるゆると締め出した。
 この時和泉屋次郎吉は、南側の廊下に立っていた。彼は愉快でたまらなかった。彼は相手の人間が、平八であるとは知らなかった。彼と同じ稼ぎ人が、彼と同じ目的のもとに、忍び込んでいるものと推量した。そうしてそやつは忍術《しのび》にかけては、名ある奴であろうと想像した。そいつをうまうま翻弄《ほんろう》したことが、彼にはひどく愉快なのであった。

    美しいかな人情の発露

 しかしにわかに静かになったのが、彼には怪訝《けげん》に思われた。「疲労《つか》れたかな、可愛そうに」で彼は耳を澄ました。次第に好奇心に駆られて来た。行って見たくてならなかった。そこで彼はソロソロと、南側の廊下を西にとり、お艶の部屋まで行って見た。そうしてそこから見渡される、西側の廊下を隙《す》かして見た。しかし誰もいなかった。で、今度は西側の廊下を、北の方へ歩いて行った。そ
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