「よろしい、下ろせ」
 と駕籠を出たところは、南町奉行所の門前であった。
 裏門へ廻ると平八は、ズンズン内《なか》へはいって行った。
 与力詰所までやって来ると、顔見知りの与力が幾人かいた。
「いよう、これは郡上氏」
「いよう、これは玻璃窓の旦那」
「いよう、これは無任所与力」
 などといずれも声を掛けた。それほどみんなと親しいのであった。
「玻璃窓の爺《おやじ》の出張だ。大事件が起こったに違いない、うかつにノホホンに構えていて、抜かれでもしたら不面目、あぶねえあぶねえ、用心用心」
 なかにはこんなことをいう者もあった。
 平八はニヤリと笑ったばかり、一人の与力へ眼をつけると、
「石本氏、ちょっとお顔を」
「なんでござるな」
 と立って来るのを、平八は別室へ誘《いざな》った。
「秘密に書き上げを拝見したいが」
「ははあ、書き上げ? どうなされるな?」
「いやちょっと、ご迷惑はかけぬ」
「貴殿のこと、よろしゅうござる」
 持って来た書き上げをパラパラめくると、二、三平八は書きとめた。
「そこで、もう一つお願いがござる。……貴殿のお名を拝借したい」
「いと易いこと、お使いなされ」
 また平八は駕籠へ乗った。
「日本橋だ、河岸へやれ」
 下りたところに廻船問屋、加賀屋というのが立っていた。
「許せよ」
 と平八はズイとはいった。
「これはおいでなさいませ。ええ、何か廻船のご用で?」
 店の者は揉み手をした。
「いやちょっと主人に逢いたい」
「どんなご用でございましょう?」迂散《うさん》らしく眼をひそめた。
「逢えば解る、主人にそういえ」
「失礼ながらあなた様は?」
「南町奉行所吟味与力、石本勘十郎と申す者だ」
「へーい」
 というと二、三人、奥へバタバタと駈け込んだ。それほどまでに吟味与力は、権勢のあったものである。
「どうぞお通りくださりますよう」
「そうか」というと郡上平八はズイと奥の間へ通って行った。

    廻船問屋を歴訪す

 茶と莨盆《たばこぼん》と菓子が出て、それから主人が現われた。
 額をピッタリ畳へつけ、
「当家主人、卯三郎《うさぶろう》、お見知り置かれくだされますよう」
「早速ながら訊くことがある」
「は、は、何事でござりましょうか?」
「今月初旬、七里ヶ浜沖で、そちの持ち船|琴平丸《こんぴらまる》、賊難に遭ったということだな。書き上げによって承知
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