ざるよ」「おおこれがそれでござるかな」「よくよくご覧なさるがよい。奇妙な特徴がございましょうがな」「どれ」というと一閑斎は、顔を地面へ近づけた。「や、これは不思議不思議、蟹《かに》のように横歩きだ!」
「その通り」と平八は、やはり沈痛の声でいった。「その横歩きが特徴でござる。……すべて横歩きは縦歩きと比べて――すなわち普通の歩き方と比べて、ほとんど十倍の速さがござる。昔から早足といわれた者は、おおかた横歩きを用いましたそうな」「ほほうさようでございますかな」
「ところで」と平八は力をこめ、「この地点から水神へ向けて、一筋ついている足跡の外に、さらに一筋同じような、横歩きの足跡のついているのが、お解りではあるまいかな」「さようでござるかな、どれどれどこに?」一閑斎は雪の地面を、改めて仔細《しさい》に調べて見た。はたして足跡はついていた。今も降っている雪のために、おおかた消されてはいたけれど、その足跡は水神の方から、こっちへあるいて来たものらしい。
「つまり」と平八は説明した。「鼠小僧と想像される、ある一人の人間が、水神の方から大急ぎで、横歩きでここまで来たところ、十間のあなたで一組の男女が、何やら悶着《もんちゃく》を起こしている。そこでその男はここに佇《たたず》んで、しばらく様子を窺《うかが》ったあげく、やって来た駕籠に付き添って、元来た方へ引き返して行った。……とこう想像を廻《めぐ》らしたところで、さして不自然ではござるまいがな」

    泥棒の嚏《くさめ》も寒し雪の夜半《よわ》

「それに相違ござるまい。細かい観察恐れ入りましたな」一閑斎はここに至って、すっかり感心したものである。
 二人の老人は堤の上を、もと来た方へ引き返して行った。もとの場所へ辿《たど》りつくと、「さて最後にお見せしたい物が、実はここにもう一つござる」こういいながら平八は、巨大な桜樹《おうじゅ》の根もとから、川とは反対に耕地《はたち》の方へ、土手の腹を下って行ったが、提灯で地面を振り照らすと、「ご覧なされ足跡が、土手下の耕地《はたち》を両国の方へ、走っているではござらぬかな。さて何者の足跡でござろう?」
 一閑斎は眼を近づけ、仔細に足跡を調べたが、
「どうやらこれは武辺者の……」「さよう、武辺者の足跡でござる。目的をとげた武辺者は、人に見られるのを憚《はばか》って、堤から飛び下り耕地を伝い、
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