「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 ふたたびかこ[#「かこ」に傍点]の声は盛り返した。その声々に抽《ぬき》んでて、謡の声はなおつづいた。
 船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。

    「主知らずの別荘」の別荘番

「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1−3−28]かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ……
「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1−3−28]影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の……
「うなっては困る。うなっては困る」
「誰もうなってはいないではないか」
「お前の事だ。うなっては困る」
「おれは何もうなってはいない」
「今までうなっていたじゃないか」
※[#歌記号、1−3−28]おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、あま[#「あま」に傍点]の呼び声かすかにて……
「あれ、いけねえ、またうなり出した」
※[#歌記号、1−3−28]沖に小さき漁《いさ》り舟の、影|幽《かす》かなる月の顔……
「やりきれねえなあ、うなっていやがら」
※[#歌記号、1−3−28]仮りの姿や友千鳥、野分《のわき》汐風いずれも実《げ》に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな……
「オイオイ若いの。困るじゃねえか」
「なんだ貴様。まだいたのか」
「お前がうなっているからよ」
「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」
「ははあ、そいつが謡ってものか」
「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」
「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」
「アッハッハッハッそれが悪いか」
「なんと自惚《うぬぼ》れの強いわろ[#「わろ」に傍点]だ」
「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」
「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」
「おかしな奴だな。誰に叱られる?」
「旦那によ、旦那殿によ」
「なぜ叱られる。何んの理由で?」
「やかましいからよ。うなるのでな」
「ははあ、それでは謡のことか」
「うん、そうとも、他に何がある」
「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」
「うんにゃ、駄目だ。お
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