まあし》が乱れて濛気《もうき》となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。轟々《ごうごう》という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、咽《むせ》ぶような物の音は、船の軋《きし》む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 その荒涼たる光景の中から、十数人のかこ[#「かこ」に傍点]の声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。
 乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船のへさき[#「へさき」に傍点]に突っ立っていた。
「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう? だがいやいやそうでもないな、かこ[#「かこ」に傍点]はどうだ! あの姿は!」
 銀之丞は武者揮いをした。
「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力! 恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度! これが本当の人間だな! ふさぎの虫も糸瓜《へちま》もない! あるものは力ばかりだ! いいな、実にいい、生き甲斐があるな!」
 嵐は益※[#二の字点、1−2−22]吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。四辺《あたり》は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の穂頭《ほがしら》であった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 かこ[#「かこ」に傍点]どもの呼ぶ掛け声は、益※[#二の字点、1−2−22]勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。
 かこ[#「かこ」に傍点]は次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。
「もういけねえ! もういけねえ!」
 悲鳴の声が聞こえて来た。
 真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。
「助けてくれえ!」
 と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。
 と、この時、朗々たる、謡《うたい》の声が聞こえて来た。
 神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは! 暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。
「誰だ誰だ謡をうたうのは!」
「偉《えれ》えお方だ! 偉えお方だ!」
「偉えお方が乗っておいでになる! 船は助かるぞ助かるぞ!
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