、ヒューと鳴り渡る。それが睡気《ねむたげ》な調和をなし、月夜を通して響き渡る。
静かに老婆は立ち上がった。それから両手を差し出した。それを上下へ上げ下げする。何かを招いているらしい。
と、城下の方角から、一つの黒点があらわれたが、それが風のように走って来る。魔法使いの老婆の手が遥かに犠牲《いけにえ》を呼んだのでもあろう。チン、チン、チン、カン、カン、カン、ヒュー、ヒューと音楽の音は次第次第に調子を早め、上げ下げをする老婆の手がそれに連れて速くなる。黒点は次第に近寄って来る。点が棒になり棒が人形となり、月の光を全身に浴びた一人の若い侍の姿が、やがて眼前へ現われた。諏訪家の若殿頼正である。
三人の女と老婆とは、にわかにスーッと立ち上がった。そうして音楽を奏しながら階段を悠々と昇り出した。やはり老婆は左右の手を上へ下へと上げ下げする。やがて屋内へ姿を消した。
頼正の眼は見開かれている。凝然《じっ》と前方へ注がれている。しかし眠っているらしい。ただ足ばかりが機械的に動く。階段の前へ来たかと思うともう階段を昇っている。あたかも物に引かれるように、躯《からだ》を斜めに傾《かし》げたかと思うとスーッと屋内へ辷《すべ》り込んだ。
後は森然《しん》と静かである。音楽の音も聞こえない。
木蔭で見ていた葉之助は何がなしにゾッとした。
「……水狐族の妖術だな。あの老婆が長《おさ》なのであろう。人を音楽で引き寄せる。不思議なことがあればあるものだ。……家の中で何をしているのだろう?」
強い好奇心に誘われて静かに葉之助は木蔭を立ち出で、階段へ足をそっと掛け一階二階と昇って見た。とたんにヒューと空を切って一本の投げ棒が飛んで来たが、葉之助の足を払おうとする。ハッと驚いた葉之助は、身を躍らせて階段からヒラリと地上へ飛び下りた。しかしどこにも人影はない。月の光が蒼茫と前庭一杯に射し込んでいた。木立や家影《いえかげ》を黒々と地に印《しる》しているばかりである。
葉之助はまたもゾッとした。「帰った方がよさそうだ」こう思わざるを得なかった。そこで彼は身を忍ばせ水狐部落を抜け出し、野良の細道をスタスタと湖水の岸まで引き返して来た。
一人の女が湖水の岸の柳の蔭に立っている。どうやら泣いているらしい。
「これ女中どうなされたな?」
葉之助は怪しんで近寄って行った。見れば美しい娘である。
「このような深夜《よふけ》にこのような所で、何を泣いておられるな?」
「はい」と云ったがその娘は顔から袖を放そうとはしない。白い頸、崩れた髪、なよなよとした腰の辺《あた》り、男の心を恋に誘い、乱らがましい心を起こさせようとする。
「どこのお方で何んと云われるな?」
葉之助は優しくまた訊いた。
「産まれは京都《みやこ》、名は水藻《みずも》、恐ろしい人買《ひとか》いにさらわれまして……」
「いやいやそうではござるまい」鏡葉之助は静かに云った。
「生れは神宮寺、名は久田……」
「え?」と娘は顔を上げる。
「馬鹿!」と一喝、葉之助は、抜き打ちに颯《さっ》と切り付けた。と、娘は狼狽しながらも、ピョンと背後へ飛び退くと、袖を手に巻きキリキリと頭上高く差し上げたが、それをグルグルグルグルと、渦巻きのように廻したものである。
心に隙はなかったが、相手の不思議の振る舞いを怪しく思った葉之助は、じっと[#「じっと」に傍点]その手へ眼を付けた。次第に精神が恍惚となる。すなわち今日の催眠術だ。葉之助はそれへ掛かったのである。「あ、やられた」と思った時には、身動きすることさえ出来なかった。月も湖水も柳の木も、娘の姿ももう見えない。グルグルグルグルと渦巻き渦巻く奇怪な物象が眼の前で、空へ空へ空へ空へ、高く高く高く高く、ただ立ち昇るばかりである。
彼は刀を握ったまま湖水の岸へ転がった。彼は昏々と眠ったのである。そうして翌朝百姓によって呼び覚まされたその時には、腰の大小から衣裳まで悉《ことごと》く剥ぎ取られていたものである。
二四
これは武士たる葉之助にとっては云いようもない恥辱であった。
彼は城内の別館で、爾来《じらい》客を避けて閉じ籠もった。そうして病気を口実に、正式の使者の会見をさえ延期しなければならなかった。
しかし忽《たちま》ちこの噂は城の内外へ拡まった。
「内藤家より参られた病気見舞いの使者殿が不思議なご病気になられたそうな」
「さよう不思議なご病気にな。一名|仮病《けびょう》とも云われるそうな」「不面目病とも申されるそうな」「恥晒《はじさ》らし病とも申されるそうな」――などと悪口を云う者もある。どう云われても葉之助にはそれに反抗する言葉がない。
「噂によれば葉之助という仁《ひと》は、内藤殿のご家中でも昼行灯と異名を取った迂濶《うかつ》者だということであるが、それが正しく事実ならさような人間を使者によこされた内藤家こそ不届き千万」こう云う者さえ出て来るようになった。
「いやいやそれは中傷で、葉之助殿は非常な武芸者、高遠城下で妖怪《もののけ》を退治し、武功を現わしたということでござる」稀《まれ》にはこう云って葉之助を、弁護しようとする者もあった。
「何さ、高遠の妖怪は諏訪の妖怪と事|異《かわ》り意気地《いくじ》がないのでござろうよ」などと皮肉を云う者もある。一方若殿頼正は、誰がどのように警護しても、時刻が来れば忽然《こつぜん》と抜け出し、城から姿を隠すのであった。そうして日夜衰弱し、死は時間の問題となった。
しかも、葉之助は寂然《せきぜん》と、別館に深く籠もっていて、他出しようともしないのである。
ある日葉之助はいつも通り別館の座敷に端座してじっと[#「じっと」に傍点]思案に耽《ふけ》っていた。彼の前には、「水狐族縁起」が、開いたままで置いてある。彼は今日までに幾度となくこの写本を読み返した。そうしてこの中から何らかの光明何らかの活路を発見《みつけだ》そうとした。しかし不幸にも今日までは見出すことが出来なかった。
彼はカッと眼を開けた。それから改めて読み出した。と、にわかに彼の眼は一行の文字に喰い入った。
「八ヶ嶽山上窩人に対しては、深讐《しんしゅう》綿々|尽《つ》く期《とき》無《な》けん、これ水狐族の遺訓たり」
こうそこには記されてある。
「うん、これだ!」
と葉之助はポンとばかりに膝を叩いた。
「なんという俺は迂濶者《うかつもの》だ。これほど立派な活路があるのに、それに今まで気が付かなかったとは……八ヶ嶽山上の窩人に対し水狐族が深讐とみなすからには、窩人の方でも水狐族を深讐と見ているに相違ない。したがって窩人の連中は、水狐族に対して敵対の手段を考えているに相違ない。ではその窩人と邂逅《いきあ》って水狐族に対する敵対の手段を尋ねたとしたらどうだろう! 恐らく彼らは喜んで教えてくれるに違いない。八ヶ嶽に行って窩人と逢おう!」
日没《ひぐれ》を待って葉之助は窃《こっそ》り城を抜け出した。
途中で充分足|拵《ごしら》えをし、まず茅野宿《ちのじゅく》まで歩いて行き、そこから山路へ差しかかった。薬沢《くすりさわ》、神之原、柳沢。この柳沢で夜を明かし翌朝は未明に出発した。八手まで来て北に曲がったが、もうこの辺は高原で、これより奥には人家はない。阿弥陀ヶ嶽の山骨を上へ上へと登って行く。途中一夜野宿をした。
三日目の昼頃|辿《たど》り着いたのは「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」の谿谷《たにあい》で、見ると小屋が建っていた。幾年風雨に晒《さ》らされたものか屋根も板囲いも大半崩れ見る影もなく荒れていたが、この小屋こそは十数年前に窩人の娘山吹と城下の商人《あきゅうど》多四郎とがしばらく住んでいた小屋なのである。二人の間に儲けられた猪太郎と呼ぶ自然児もかつてはここに住んでいた筈だ。それらの人達はどこへ行ったろう? 山吹は既に死んだ筈である。しかし多四郎や猪太郎は今尚|活《い》きている筈だ。
鏡葉之助は小屋の前にやや暫時《しばらく》立っていた。不思議にも彼の心の中へ、何んとも云われない懐かしの情が、油然《ゆうぜん》として湧いて来た。遠い昔に度々聞きそうして中頃忘れ去られた笛の音色が卒然と再び耳の底へ響いて来たような、得《え》も云われない懐かしの情! 思慕の情が湧いて来た。しかしそれは何故だろう? そうだそれは何故だろう? 葉之助にとって「鼓ヶ洞」は何んの関係もないではないか、今度が最初《はじめて》の訪問ではないか。鏡葉之助は鏡葉之助だ。他の何者でもないではないか。
それとも葉之助と「鼓ヶ洞」とは何か関係があるのであろうか?
「これは不思議だ」と葉之助は声に出して呟いた。「遠い遠い遠い昔に、私《わし》は何んだかこの小屋に住んでいたような気持ちがする。……しかしそんなことのありようはない!」忽然、この時絶壁の上から、人の呼び声が聞こえて来た。
「おいでなさい! おいでなさい! おいでなさい!」慈愛に充ちた声である。
二五
「おいでなさい、おいでなさい、おいでなさい!」
慈愛に溢れた呼び声がまた山の上から聞こえて来た。
鏡葉之助はそれを聞くと何んとも云われない懐かしの情が油然《ゆうぜん》と心へ湧き起こった。
「誰かが俺を呼んでいる。行って見よう、行って見よう」
忙しく四辺《あたり》を見廻した。正面に当たって崖がある。崖には道が付いている。その道は山上へ通っている。
で葉之助はその道から山の上へ行くことにした。苔《こけ》に蔽《おお》われ木の葉に埋もれ、歩き悪《にく》い道ではあったけれど、葉之助にとっては苦にならなかった。で、ズンズン登って行く。
こうしてようやく辿《たど》りついた所は、いわゆる昔の笹の平、すなわち窩人《かじん》の部落であって、諸所に彼らの住家があったが、人影は一つも見られなかった。
見られないのが当然である。十数年前に窩人達は漂泊《さすらい》の旅へ上ったのだから。
しかしもちろん葉之助にはそんな消息は解っていない。で、窩人の廃墟ばかりあって、窩人その者のいないということが、少なからず彼を失望させた。
「だがさっきの呼び声は決して自分の空耳《あだみみ》ではない。確かに人間の呼び声であった。その人間はどこにいるのであろう?」
そこで彼は何より先にその人間を探すことにした。
一軒一軒根気よくかつては窩人の住家であり、今は狐狸の巣となっている、窟《いわや》作りの小屋小屋を丁寧に彼は探したが、人間の姿は見られなかった。
「さては空耳《あだみみ》であったのかしら?」
ようやく疑わしくなった時、またもや同じ呼び声がどこからともなく聞こえて来た。
「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい!」と。
声は山の方からやって来る。
で葉之助は元気付き声のする方へ走って行った。荒野を上の方へ越した時、丘の上に森があり、森の中に神殿があり、内陣の奥に槍を持ったさも[#「さも」に傍点]厳《いか》めしい木像が突っ立っているのを見付けたが、これぞ天狗の宮であり、厳めしい武人の木像こそ宗介天狗のご神体なのであった。しかしこれとて葉之助には何が何んであるか解ってはいない。
とは云え何んとなくその木像が尊く懐かしく思われたので、葉之助は手を合わせて恭《うやうや》しく拝した。と、その時人声がした。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
ギョッと驚いた葉之助が思わずその眼を見張った時、木像の蔭からスルスルと、白衣長髪の人影が、彼の眼の前へ現われた。まことに神々しい姿である。慈愛に溢れた容貌である。人と云うより神に近い。
その神人はまた云った。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
意外の人物の出現に、胆を潰した葉之助はしばらく無言で佇《たたず》んでいたが、この時にわかに一礼し、
「これはどなたか存じませぬが、お人違いではございませぬかな。私事は高遠の家中、鏡葉之助と申す者、猪太郎ではございませぬ」
「さようさよう只今の名は葉之助殿でござったな。しかしやっぱり猪太郎じゃ。さよう少くも幼名はな」神々しい姿のその人はこう云うと莞爾《にこやか》に微笑ん
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