「いよいよ武右衛門湖水へ入る気か」
「殿、二言はござりませぬ」
「勇ましく思うぞ。きっと仕れ」
「は」
 と云うと衣裳を脱ぎ、下帯へ短刀を手挟《たばさ》むと、屹《きっ》と水面を睨み詰めた。両手を頭上へ上げると見る間に、辷《すべ》るがように飛び込んだ。水の音、水煙り、姿は底へ沈んで行く。
 頼正を始め家臣一同、歯を喰いしばり眦《まなじり》を裂き、じっと水面に見入ったがしばらくは何んの変ったこともない。
 と、忽然《こつぜん》と浮き上がって来たのは、南無三宝! 血汐であった。
「あっ、武右衛門もやられたわ!」
 頼正、躍り上がつて叫んだ時、水、ゴボゴボと湧き上がり、その割れ目から顔を出したのは、血にまみれた武右衛門である。
「それ、者ども、武右衛門を助けい!」
「あっ」と云うと二、三人、衣裳のまま飛び込んだが忽《たちま》ち武右衛門を担《かつ》ぎ上げる。
「腕! 腕!」と誰かが叫んだ。無残! 武右衛門の右の腕が肩の付け根から喰い取られている。
「負傷《ておい》と見ゆるぞ、介抱《かいほう》致せ! ……武右衛門! 武右衛門! 傷は浅い! しっかり致せ! しっかり致せ!」
「殿、湖底は地獄でござるぞ!」武右衛門は喘《あえ》ぎ喘ぎ云うのであった。「巫女姿の一人の老婆……」
「巫女姿の一人の老婆?」頼正は思わず鸚鵡《おうむ》返す。
「苔蒸《こけむ》した石棺に腰をかけ」
「苔蒸した石棺に腰をかけ?」
「口に灘兵衛の生首をくわえ……」
「ううむ、灘兵衛の生首をくわえ?」
「私を見ると笑いましてござる。あ、あ、あ、笑いましてござる。……あ、あ、あ」
 と云ったかと思うとそのままグッタリ首を垂れた。武右衛門は気絶をしたのである。
 船中一時に寂然《しん》となる。声を出そうとする者もない。湖底! 湖底! 湖水の底! 生首をくわえた水狐族の巫女が、苔蒸した石棺に腰かけている! ああこの恐ろしい光景が、自分達の乗っている船の真下に、まざまざ存在していようとは。
 息苦しい瞬間の沈黙を、頼正の声がぶち[#「ぶち」に傍点]破った。
「帰館帰館! 船を返せ!」
 ギー、ギー、ギー、ギー、二十隻の船から艪《ろ》の音が物狂わしく軋《きし》り出す。
 今はほとんど順序もない、若殿のご座船を中に包み、後の船が先になり、先の船が後になり、高島城の水門を差し右往、左往に漕いで行く。
 石棺引き上げの第一日目はこうして失敗に終わったのである。
 爾来《じらい》若殿頼正の心は怏々《おうおう》として楽しまなかった。第二回目を試みようとしても応ずる者がないからである。
 ある夜、一人城を出て、湖水の方へ彷徨《さまよ》って行った。それは美しい明月の夜で湖水は銀のように輝いている。ふと、その時、頼正は、女の泣き声を耳にした。
 湖水の岸に柳があり、その根方《ねかた》に一人の女が、咽《むせ》ぶがように泣いている。
 頼正は静かに近寄って行った。
「見ればうら[#「うら」に傍点]若い娘だのに、何が悲しくて泣いておるぞ?」こう優しく云ったものである。
 女はハッと驚いたように、急に根方から立ち上がったが、その女の顔を見ると、今度は頼正が吃驚《びっく》りした。
 月の光に化粧された、その女の容貌《きりょう》が、余りにも美しく余りにも気高《けだか》く、あまりにも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけていたからである。

         一九

 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜《おぼろづきよ》にしくものはなし。
 敢《あえ》て春の月ばかりではない、四季を通じて月の光は万象《ばんしょう》の姿を美しく見せる。
 湖水を背にしてスラリと立ち、顔を両袖に埋めながらすすりなきする乙女の姿は、今、月光に化粧されていよいよ益※[#二の字点、1−2−22]美しく見える。諏訪家の若殿頼正にはそれがあたかも天上から来た霊的の物のように見えるのであった。
「このような深夜にこのような処で若い女子《おんな》がただ一人何が悲しくて泣いておるぞ」
 こう云いながら頼正は乙女の側へ寄って行った。
「私《わし》は怪しい者ではない。相等《そうとう》の官位のある者だ。心配するには及ばない。私に事情を話すがよい。そなたはどこから参ったな?」
 すると乙女は泣く音《ね》を止め、わずかに袖から顔を上げたが、
「京都《みやこ》の産まれでございます」
「ナニ京都《みやこ》? おおさようか。京都は帝京《ていきょう》、天子|在《いま》す処、この信濃からは遠く離れておる。しかしよもやただ一人で京都から参ったのではあるまいな」
「京都から参ったのでございます」
「うむ、そうしてただ一人でか?」
「誘拐《かどわか》されたのでございます」
「誘拐された? それは気の毒。で、何者に誘拐されたな?」
「ハイ、今から二十日ほど前、乳母を連れて清水寺に参詣に参った帰路、人形使いに身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》した恐ろしい恐ろしい人買《ひとか》いに誘拐されたのでございます」
「おおさようか、益※[#二の字点、1−2−22]気の毒、さぞ両親《ふたおや》が案じていよう、計らず逢ったも何かの縁、人を付けて帰して遣わす」
「はい有難うはございますが、母と妾《わたくし》とは継《まま》しい仲、たとえ実家へ帰りましても辛《つら》いことばかりでございます」乙女はまたも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた顔を袖へ埋めて泣くのであった。
「かえすがえすも不幸な身の上、はてこれは困ったことだ」頼正はその眼を顰《ひそ》めたが、「ところで誘拐《かどわかし》の人買いは今どこに何をしておるぞ?」
「どこにどうしておりますやら、和田峠とやら申す山で、ようやく人買いの眼を眩《くら》ませ、夢中でここまで逃げては来ましたが、知人《しりびと》はなし蓄《たくわ》えもなし、うろうろ徘徊《さまよ》っておりますうちには乞食非人に堕《お》ちようとも知れず、また恐ろしい人買いなどに捕えられないものでもなし、それより綺麗《きれい》なこの湖水へいっそ身を投げ死んだなら、黄泉《あのよ》の実の母様にお目にかかることも出来ようかと……」
「それでここで泣いていたのか?」
「はい」と云って身を顫わせる。
 月は益※[#二の字点、1−2−22]|冴《さ》え返って乙女の全身は透通《すきとお》るかとばかり、蒼白い光に煙《けぶ》っている。その肩の辺に縺《もつ》れかかった崩れた髪の乱らがましさ、顔を隠した袖を抜けてクッキリと白い富士額《ふじびたい》、腰細く丈《たけ》高く、艶《えん》と凄《せい》とを備えた風情《ふぜい》には、人を悩ますものがある。二十一歳の今日まで無数の美女に侍《かしず》かれながら、人を恋したことのない武道好みの頼正も、この時はじめて胸苦しい血の湧く思いをしたのである。
「そうしてそちの名は何んと云うぞ?」
「はい、水藻《みずも》と申します」
「水藻、水藻、しおらしい名だ。これからそちはどうする気だな?」
「はい、どうしたらよろしいやら、いっそやっぱり湖水の底へ……どうぞ死なしてくださりませ! どうぞ死なしてくださりませ!」物狂わしく身をもがく。
「この頼正がある限りは決してそちは死なしはせぬ。何故そのように死にたいぞ?」
「憐れな身の上でございますゆえ……」
「この頼正がある限りはお前は不幸に沈ませては置かぬ。それともそちは私《わし》が嫌いか?」
 云い云い肩へ手を置いた。水藻はそれを避けようともしない。堅く身を縮めるばかりである。
「返辞のないは厭《いや》と見える」
 水藻《みずも》は無言で首を振る。
「それともそちは恥ずかしいか?」
 乙女は黙って頷いた。
「まだそちは死にたいか?」
「死ぬのが厭になりました」
「楽しく二人で生きようではないか」
 水藻は袖から顔を上げたが涙に濡れた星のような眼が、この時かすかに微笑《ほほえ》んだ。
「おお笑ったな。そうなくてはならぬ。私《わし》も寂しい身の上だ。不足のない身分ながら、いつも寂しく日を送って来た。だがこれからは慰められよう。私は事業を恋と換えた。恋の美酒《うまざけ》に酔い痴《し》れよう。ほんとに男と云うものは、身も魂も何物かに打ち込まなければ生き甲斐《がい》がない。私はこれまで荒々しい武道と事業とで生きて来た。それがいよいよ行き詰まったところで計らずも女の恋を得た。これで楽しく生きることが出来る。お前は私の恩人だ。そうして私の恋人だ。私はお前を放しはせぬ」彼の顔からは憂欝《ゆううつ》が消え、新しく希望が現われたのである。

         二〇

 こういう事があってから十日余りの日が経った。その時諏訪の家中一般に一つの噂が拡まった。
 ――若殿が毎夜城を出てどこかへ行かれるというのである。――
 ――それから間もなく若殿に関してもう一つの噂が拡まった。若殿にはこの頃隠し女が出来てそこへ通われるというのである。――
 で、人達は取り沙汰した。
「武道好みの若殿に女が出来たとは面白いな」
「さて、どんな女であろうぞ?」「いったい何者の娘であろうな?」「家中の者の娘であろうか?」「それとも他国の遊女売女かな?」「湖水の石棺を引き上げようというあの乱暴な計画《もくろみ》がどうやらお蔭で止めになったらしい。これだけでも有難い」「女大明神と崇《あが》めようぞ」「それにしてもその女はどこに囲われているのであろう?」「どうぞ一眼見たいものだ」「いずれ美人に相違あるまい」「石部金吉の若殿をころりと蕩《たら》した女だからの、それは美人に相違ないとも」「いやいや案外そうではあるまい。奇抜好みの若殿だ、人《にん》三|化《ばけ》七の海千物《うみせんもの》を可愛がっておられるに違いない」「ははあこれももっともだな」「轆轤《ろくろ》ッ首ではあるまいかな」「夜な夜な行灯《あんどん》の油を嘗《な》めます」「一つ目の禿《かむろ》ではあるまいかな」「信州名物の雪女とはどうだ」「ところが今は冬ではない」「ううん、それじゃ夏女か」「そんな化物聞いたこともない」「河童《かっぱ》の化けたんじゃあるまいかな」「永明寺山《えいめいじやま》の狸かも知れぬ」「唐沢山《からさわやま》の狐であろう」「いや狢《むじな》だ」「いや河獺《かわうそ》よ」「いやいや※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》に相違ない」――噂は噂を産むのであった。
 そのうち、家中の人達の眼に、当の若殿頼正が、日に日に凄《すご》いように衰弱するのが、不思議な事実として映るようになった。
 ――そこでまた噂が拡まった。
「これは魅入られたに違いない。いよいよ相手は怪性《けしょう》の物だ」「狢かな河童かな。きっと岡谷の河童であろう」「いや違う。そうではあるまい、これは水狐族に相違ない」
「あッ、なるほど!」
 と人々は、この意見に胆《きも》を潰《つぶ》した。
「いかさまこれは水狐族であろう。水狐族なら祟《たた》る筈だ」
「そうだこれは祟る筈だ。彼奴《きゃつ》らが永い間守り本尊として守護をして来た湖水の石棺を引き上げようとしたのだからな」「彼奴らの仲間には眼の覚めるような美しい女がいるという事だ」「しかもあいつらは魔法使いだ」「その上恐ろしく執念深い」「偉い物に魅入られたぞ」「若殿のお命もあぶなかろう」「お助けせねば義理が立たぬ」「臣下として不忠でもあろう」「しかしいったいどうしたらいいのだ?」「何より先に行《や》ることは女の在家《ありか》を突き止めることだ」
「しかしどうして突き止めたものか?」
「誰が一番適任かな?」
「拙者突き止めてお眼にかける!」
 こう豪然と云った者がある。佐分利流の槍術指南|右田運八《みぎたうんぱち》無念斎であった。
「お、右田殿か、これは適任」
「さよう、これは適任でござる」
 人々は同音に煽《あお》り立てた。「是非ともご苦労願いたいもので」
「よろしゅうござる、引き受け申した。たかが相手は水狐族の娘、拙者必ず槍先をもって悪魔退散致させましょう」
 ――で、運八はその日
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