八ヶ嶽を下り、人里へ出た葉之助は、高遠城下へは帰らずに、何処《いずこ》とも知れず立ち去った。
爾来《じらい》彼の消息は、杳《よう》として知ることが出来なかった。
時勢はズンズン移って行った。
天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、元治、慶応、そうして明治となり大正となった。
この物語に現われた、あらゆる人達は一人残らず、地球の表から消えてなくなり、その人達の後胤《こういん》ばかりが、残っているという事になった。
しかし本当に久田の姥の、あの恐ろしい呪詛の言葉が、言葉通り行われているとしたら、主人公の鏡葉之助ばかりは、依然若々しい容貌をして、今日も活《い》きていなければならない。
だがそんな[#「そんな」に傍点]事があり得るだろうか?
あらゆる不合理の迷信を排斥《はいせき》している科学文明! それが現代の社会である。スタイナッハの若返り法さえ、怪しくなった今日である。天保時代の人間が、活きていようとは思われない。
三一
大正十三年の夏であった。
私、――すなわち国枝史郎は、数人の友人と連れ立って、日本アルプスを踏破した。
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