ひどく急いでいるようであった。空には月も星もなく、その空さえも見えないほどに、木立が頭上を蔽うていた。で四辺は闇であった。
闇の中で二人は擦れ違った。
「はてな、何んとなく知った人のようだ」
葉之助は背後《うしろ》を振り返って見た。
すると擦れ違ったその人も、どうやらこっちを見たようであった。
が、その人も急いでいれば、葉之助も心が急《せ》いていた。そのまま二人は別れてしまった。
葉之助は根岸へ来た。
殿の下屋敷の裏手へ行った。
「あっ」と彼は仰天した。地面に一筋白々と、筋が引かれているではないか。
「しまった!」と彼はまた云った。
しかし間もなくその筋が、一所《ひとところ》足で蹴散らされ、白粉《はくふん》が四散しているのを見ると、初めて胸を撫で下ろした。
それと同時に不思議にも思った。
「いったい誰の所業《しわざ》だろう?」
首を傾げざるを得なかった。
「この白粉の重大な意味は、俺と北山《ほくざん》先生とだけしか知っている者はない筈だ。俺は蹴散らした覚えはない。では北山先生が、今夜ここへやって来て、蹴散らしたのではあるまいか。……おっ、そう云えば鶯谷で、知ったような
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