音《ね》が聞こえて来た。いや笛ではなさそうだ。笛のような[#「ような」に傍点]物の音であった。耳を澄ませばそれかと思われ、耳を放せば消えてしまう。そういったような幽かな音で、それが漸次《だんだん》近寄って来た。しかしどこからやって来たのか、またどの辺へ近寄って来たのか、それは知ることが出来なかった。とまれ漸次その音は寝間へ近寄って来るらしい。
金一郎様は睡っていた。お附きの人達も次の部屋で明方の夢をむさぼっていた。で、幽かな笛のような音を耳にした者は一人もなかった。
ではその笛のような不思議な音を、耳にすることの出来たものは、全然一人もなかったのであろうか?
下屋敷の内には一人もなかった。
しかし一人下屋敷の外で、偶然それを聞いたものがあった。
他でもない葉之助であった。
その葉之助は駕籠をつけ[#「つけ」に傍点]てこの根岸までやって来たが紋兵衛の乗っているその駕籠が、森家の下屋敷へはいるのを見ると、しばらく茫然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて気が付くと足を返し、主君駿河守の下屋敷の方へ何心なく歩いて行った。
駿河守の下屋敷と森帯刀家の下屋敷との、ちょうど真ん中まで来た
前へ
次へ
全368ページ中235ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング