一月余りの余裕があろうか。見渡す限りの山々谷々には黄に紅に色を染めた幾億万葉の紅葉《もみじば》が錦を織って燃え上がっている。眼の下|遥《はる》かの下界に当たって、碧々《あおあお》と湛《たた》えられた大湖水、すなわち諏訪《すわ》の湖水であって、彼方《かなた》の岸に壁白く石垣高く聳《そび》えているのは三万石は諏訪|因幡守《いなばのかみ》の高島城の天主である。
 天《てん》晴れ気澄み鳥啼きしきり長閑《のどか》の秋の日和《ひより》である。
「さて」と杉右衛門は語りつづけた。「我らのご先祖|宗介《むねすけ》様が正親町《おおぎまち》天皇|天正《てんしょう》年間に生きながら魔界の天狗となりこの八ヶ嶽へ上られてからは総《あらゆ》る下界の人間に対して災難をお下しなされたのだ。そしてご自分の生活方《くらしかた》も下界の人間とは差別を立てられ家には住まず窩《あな》に住まわれた。そのうち四方から宗介様を慕って多くの人間が登山して参ったが、それらはいずれも人界《ひとのよ》において妻を奪われ子を殺され財宝を盗まれた不幸の者どもで、下界の人間|総《すべ》てに対して怨恨《うらみ》を持っている人間どもであった。こうして
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