い山や巨大《おおき》な獣の口のようにワングリと開いた谿《たに》なども橇が進むに従って次第次第に近寄って来、橇が行き過ぎるに従って後へ後へと飛び去って行く。そうして空の朧月《おぼろづき》は、橇が進もうが走ろうがそんなことには頓着せず、高い所から茫々《ぼうぼう》と橇と人とを照らしている。
橇の上の人間は――五味多四郎と権九郎とは、少しの間黙っていた。権九郎は手綱を弛《ゆる》められるだけ弛め、犬を自由に走らせながら、早く城下へ帰って行き暖かい居酒屋で酒をあおりながら素晴らしい獲物の分け前を取れるだけ沢山取ってやろうと、こんな事を腹の中で考えていた。それに反して多四郎は、この素的《すてき》もない黄金を自分一人でせしめ[#「せしめ」に傍点]たいものだと魂胆《こんたん》を巡らしているのであった。多四郎は四方を見廻したがグイと懐中《ふところ》へ手を入れた。
「しかし待てよ」と呟くとそっとその手を抜き出した。「急《せ》いては事を仕損ずる。あぶねえあぶねえ」
と腕を拱《く》み、権九郎の様子をじっ[#「じっ」に傍点]と窺う。
権九郎は多四郎へ背を向けたまま無心に手綱を操っていた。隙だらけの姿勢である。多四郎は四方を見廻した。戦いには地の利が肝心だ。……こう思ったからでもあろう。この時橇は山と谿との狭い岨道《そばみち》を走っている。
いつの間にか空が曇り、一旦止んでいた牡丹雪が風に連れて降って来た。見る見る月影は薄れて行きやがて全く消えてしまった。
雪明りで仄々《ほのぼの》とわずかに明るい。
この時、多四郎は右の手をまた懐中《ふところ》へ差し込んだが何か確《しっか》りと握ったらしい。と、じっ[#「じっ」に傍点]と眼を据えて権九郎の背中を睨んだものである。
岨道《そばみち》を曲がると眼の前へ広漠たる氷原が現われた。吹雪は次第に勢いを加え吠えるようにぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来る。犬が苦しそうに喘《あえ》ぎ出した。そうして度々逃げようとして繋《つな》ぎの紐《ひも》へ喰い付いた。とそのつど権九郎の鞭がしたたか[#「したたか」に傍点]背中を打つのであった。
「さあ今だ! さあ今だ!」
多四郎は自分で自分の胸へこう口の中で云い聞かせながらジリジリと前へ寄って行った。その時、岩にでも乗り上げたものか不意に橇が傾いた。とたんに多四郎は懐中からヌッと腕を引き抜いたが、その手が空へ上がったかと思うとキラリと何か閃《ひら》めいた。と権九郎は「あッ」と叫びバラリ手綱を放したが次の瞬間にはゴロリとばかり雪の中へ転げ落ちた。
「多四郎! わりゃ、俺を斬ったな」
血に塗《まみ》れた肩先を片手で確《しっか》り抑えながら、権九郎は体をもがいたものである。
多四郎は短刀を逆手に握り悠然と橇から下り立ったが、冷ややかに権九郎を睨み付け、
「どうだ権九、苦しいか」
「仲間を斬ってどうする気だ! さては手前血迷ったな。あ、苦しい。息が詰まる」
「何んで俺が血迷うものか。ずんとずんと正気の沙汰だ」
「なに正気? むうそうか。それじゃ汝《われ》アあの獲物を……」
「今やっと気が付いたか。……一人占めにする気だわえ」
「そうはいかねえ!」
と云いながら権九郎はヒョロヒョロ立ち上がったが、肩の傷手《いたで》に堪えかねたものか、そのままドシンと尻餅《しりもち》をついた。
「そっちがその気ならこっちもこうだ、さあ小僧覚悟しろ!」
これも呑んでいた匕首《あいくち》を抜くと、逆手に握って構えながら、立て膝をして詰め寄った。
馭者《ぎょしゃ》を失った犬どもがこの時烈しく吠え出した。三頭ながら空を仰ぎ降りしきる雪に身を顫《ふる》わせさも悲しそうに吠えるのである。
最初の傷手で権九郎は次第次第に弱って来た。肩からタラタラ滴《したた》る血は雪を紅《くれない》に染めるのであったが夜のこととて黒く見える。立とう立とうと焦心《あせ》っては見たがどうしても足が云うことを聞かない。膝でキリキリ廻りながらわずかに多四郎を防ぐのであった。
「それ行くぞ」
と多四郎は嘲けりながら飛び廻った。彼は余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》たるもので、右から襲い左から飛びかかりグルリと廻って背後から襲う。鼠《ねずみ》を捕えた猫のように最初に致命的の一撃を加え、弱って次第に死ぬのを待ち最後に止《とど》めを差そうとするのだ。
多四郎は莫迦《ばか》にお喋舌《しゃべ》りになった。
「おい権九、いやさ権九郎、何んと俺様は智恵者であろうがな。産まれながら蒲柳《ほりゅう》の質《たち》で力業には向き兼ねる。そこでお前を利用してよ、途方もねえ獲物を盗み出したところで、相棒のお前を殺してしまえば濡れ手で粟の掴み取り、一粒だって他へはやらねえ。……そのまた獲物が予想にも増し小判に直して四万両いや五万両は確かにあろう。へ、こ
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