う見えても多四郎様は、今日から大したお金持よ、贅沢《ぜいたく》のし放題。綺麗な女に旨《うま》い酒に不自由はねえというものさ」

         一九

「……おお苦しいか苦しいか。さぞ痛かろう痛かろう。肩からドクドク血が出ているなア。その苦しみもほんの一時、後は往生観念仏、楽になろうというものだ」
「む、むううう」
 と権九郎は口を利くことさえ出来なくなった。それでもいわゆる最後の一念、全身の力を足にこめ俄然《がぜん》スックと立ち上がった。間髪を入れず斬り下ろした匕首。油断していた多四郎の腕へ切っ先鋭くはいったが冬の事で着物が厚く裏掻《うらか》くことはなかったものの、多四郎の周章《あわ》てたことは云うまでもない。「あっ」と叫んで後ろ様にパタパタと五、六歩逃げたほどである。
 手の匕首をまず落とし、それから枯木が倒れるように権九郎は雪の上へ仰向《あおむ》けに仆《たお》れた。そしてそのまま長くなりもう動こうとはしなかった。彼は全く息絶えたのである。雪はさんさんと降っている。憐れな権九郎の死骸《しがい》の上へも雪は用捨なく積もるのである。黒く見えていたその死骸は見ているうちに白くなった。やがてすっかり見えなくなった。雪の墓場へ埋められたのだ。
 多四郎はヒラリと橇へ乗った。
 一言も云わず見返りもせず彼は橇を走らせた。間もなく彼と橇の影とは吹雪に紛《まぎ》れて見えなくなった。森然《しん》と後は静かである。
 ウォーとその時森の方から狼《おおかみ》の声が聞こえて来た。それに答えてどこからともなくウォーウォーと狼の声が二声三声聞こえて来た。と、純白の雪の高原へ一点二点、三、四点、黒い形が浮かび出たがだんだんこっちへ近寄って来る。すなわち数匹の狼である。
 四方に散っていた狼がさっ[#「さっ」に傍点]と集まって一団となるや、その一団の狼は鼻面を低く地へ垂れて人間の血を恋うようにこっちへノシノシと走って来たが、死骸の埋ずまっている場所まで来るとグルグルグルグル廻り出した。廻りながらパッパッと雪を掻く。掻かれた雪は嵐《あらし》に煽《あお》られ濛々《もうもう》と空へ立ち昇る。その下から現われたのは無慙《むざん》な権九郎の死骸である。颯《さっ》と狼は飛びかかった。
 死骸は狼に喰い裂かれ、後へ残ったのは襤褸《ぼろ》ばかりであった。しかしそれさえ雪に蔽われ瞬間《またたくま》に消えて行った。

 小屋の中は暖かった。焚火《たきび》が元気よく燃えている。
 山吹はじっ[#「じっ」に傍点]と坐っていた。
 その眼は焚火を見詰めていたが心は別のことを考えていた。良人《おっと》の帰りを待っているのだ。多四郎の帰るのを待っているのだ。
 多四郎は容易に帰って来ない。――帰らないのが当然《あたりまえ》である。彼は彼女を振りすてて城下へ帰って行ったのだから。
 しかし彼女はそんなこととは夢にも考えはしなかった。で、熱心に待っていた。
 戸外《そと》では吹雪が荒れていると見えて、枝の折れる荒々しい音が風音に雑《まじ》って聞こえて来た。
 不意に彼女は顔を上げ窓の方へ眼をやった。
 コトンコトンと音がする。
 彼女は物憂《ものう》そうに立ち上がり窓の戸を引き開けた。口の尖った、眼の優しい熊の顔が現われた。窓から覗いているのである。
 山吹は寂しそうに笑ったが、
「おおおお今日も大雪で山には食物《くいもの》がないと見える」
 こう云いながら鍋を取り上げ食べ残りの雑炊《ぞうすい》を投げてやった。と、熊の顔はすぐ引っ込みやがて雑炊を食べるらしい舌打ちの音が聞こえて来た。それが止むと同じ顔がまた窓へ現われた。
「もうないよ。あっちへお行き」
 こう云いながら手を振ると、熊は二、三度|頷《うなず》いたが、スッと窓から消えてしまった。
 そこで山吹は窓を閉じ元の場所へ帰って来た。じっと焚火を見詰めながら、また物思いにふけるのである。
 夜は次第に更けて行った。
 彼女はいつまでも待っていた。身動きさえしないのである。
 その時足音が聞こえて来た。しかし人の足音ではない。シトシトシトシトと小屋の周囲《まわり》をその足音は廻り出した。しかも多勢の足音である。それはどうやら犬らしい。甘えるような泣き声がクーン、クーンと聞こえて来た。
「おや来たんだよ、お爺さん達が」
 呟きながら山吹はまただるそう[#「だるそう」に傍点]に立ち上がると入口の戸を開けてやった。その戸口からはいって来たのは五匹の凄じい狼であった。全身、雪で白かったが鼻面ばかりは赤かった。生血《なまち》に塗《まみ》れているのである。
 権九郎の死骸を食い荒らしたその五匹の狼達であった。
 しかも一匹の狼は肉の着いた骨をくわえていた。それは権九郎の骨なのである。しかしもちろん山吹はそんなことは夢にも知らない。で、彼女はこう云
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