もない。窩人達の住居《すまい》には人気なく、宗介天狗の社殿《やしろ》には裸体の木像が立っていた。
 まじまじ[#「まじまじ」に傍点]と照る陽の光、こうこう[#「こうこう」に傍点]と鳴く狐の声、小鳥のさえずり、風の音、深山の呼吸《いき》が身に迫った。
 しかし一人の窩人達も、そこには住んでいなかった。
 葉之助は拝殿へ腰をかけ、四辺の風物へ眼をやった。
 と、その時聞き覚えのある、男の声が聞こえて来た。
「猪太郎、猪太郎、よく参った」
 拝殿の奥の木像の蔭から、一人の人物が現われた。白衣長髪の白法師であった。
「おおあなたは白法師様」葉之助は立って一揖《いちゆう》した。
「大概《たいがい》来るだろうと思っていたよ」
 葉之助と並んで白法師は、拝殿の縁へ腰をかけた。
「どうだ葉之助、昔の素姓が、ようやくお前にも解ったろう」
「はい、ようやくわかりました。……母は窩人で山吹と云い、父は里の商人で、多四郎と云うことでございます」
「だが多四郎の後身が、大鳥井紋兵衛だとは知るまいな」
「えっ」と葉之助は眼を瞠《みは》った。「あの紋兵衛が私の父で?」
「そうだ」と白法師は頷いた。「詳しく事情を話してやろう」
 そこで白法師は話し出した。
 多四郎が山吹を瞞《だま》したこと、山吹が猪太郎を産んだこと、多四郎に怨みを返そうと、山吹が猪太郎の二の腕へ、二十枚の歯形を付けたこと、多四郎の真の目的は、宗介天狗の木像の、黄金の甲冑を盗むことで、それを盗んだ多四郎は、それを鋳潰《いつぶ》して売ったため、にわかに富豪になったこと、その甲冑を取り返すため、窩人達が人の世へ出て行ったこと、こうして多四郎の紋兵衛は、間接でもあり偶然でもあるが、とにかく葉之助に殺されたこと。さて窩人は葉之助の手で、多四郎の命は絶ったけれど、宗介天狗の甲冑を、取り返すことは出来なかったので、故郷八ヶ嶽へは帰ることが出来ず、今も諸国を流浪していること。――
 これが白法師の話であった。
「久田の姥《うば》の執念は、私の力でもどうすることも出来ない。で、お前はいつまでも若く、いつまでも不安でいなければならない。……だがこれだけは教えることが出来る。お前はお前の力をもって久田の姥の執念を、あべこべに利用することが出来る」
「あべこべに利用すると申しますと?」葉之助は反問した。
「それは自分で考えるがいい」

 白法師と別れ、八ヶ嶽を下り、人里へ出た葉之助は、高遠城下へは帰らずに、何処《いずこ》とも知れず立ち去った。
 爾来《じらい》彼の消息は、杳《よう》として知ることが出来なかった。
 時勢はズンズン移って行った。
 天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、元治、慶応、そうして明治となり大正となった。
 この物語に現われた、あらゆる人達は一人残らず、地球の表から消えてなくなり、その人達の後胤《こういん》ばかりが、残っているという事になった。
 しかし本当に久田の姥の、あの恐ろしい呪詛の言葉が、言葉通り行われているとしたら、主人公の鏡葉之助ばかりは、依然若々しい容貌をして、今日も活《い》きていなければならない。
 だがそんな[#「そんな」に傍点]事があり得るだろうか?
 あらゆる不合理の迷信を排斥《はいせき》している科学文明! それが現代の社会である。スタイナッハの若返り法さえ、怪しくなった今日である。天保時代の人間が、活きていようとは思われない。

         三一

 大正十三年の夏であった。
 私、――すなわち国枝史郎は、数人の友人と連れ立って、日本アルプスを踏破した。
 三千六百〇三尺、奥穂高の登山小屋で、愉快に一夜を明かすことになった。
 案内の強力《ごうりき》は佐平と云って、相当老年ではあったけれど、ひどく元気のよい男であった。
「こんな話がありますよ」
 こう云って佐平の話した話が、これまで書きつづけた「八ヶ嶽の魔神」の話である。
「ところで鏡葉之助ですがね、今でも活きているのですよ。この山の背後蒲田川の谿谷《たにあい》、二里四方もある大盆地に、立派な窩人町を建てましてね、そこに君臨しているのです。決して嘘じゃあありません。もし何んならご案内しましょう。もっとも町までは行けません。四方が非常な断崖で、下って行くことが出来ないのです。せいぜいその町を眼の下に見る、十石ヶ嶽の中腹ぐらいしか、ご案内することは出来ますまい。……とても立派な町でしてね、洋館もあれば電灯もあり、人口にして一万以上、ただし外界とは交通遮断、で、自然詳しいことは、知れていないという訳です」
「だが」と私は訊いて見た。「いつどうして葉之助が、そんな所へ行ったんだね」
「明治初年だということです。漂浪している窩人の群と、甲州のどこかで逢ったんだそうです。もちろんその時は窩人達は、
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