穴居時代などに、作られたところの穴かも知れない。
 だがマアそれはどうでもよかろう。
 さて鏡葉之助は、それからどんな生活をしたか?
「いつまでも年を取らないだろう。……永久安穏はあるまいぞよ」
 水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》が、末期に臨んで呪った言葉――この通りの生活が、葉之助の身には繰り返された。
 彼はいつまでも若かった。心がいつも不安であった。
 今日の言葉で説明すれば、強迫観念とでも云うのであろう。絶えず何者かに駈り立てられていた。
 そうしてかつて高遠城下で、夜な夜な辻斬りをしたように、またもや彼は江戸の市中を、血刀を提げて毎夜毎夜、彷徨《さまよ》わなければならないようになった。
 八山下《やつやました》の夜が更《ふ》けて、品川の海の浪も静まり、高輪《たかなわ》一帯の大名屋敷に、灯火一つまばたいてもいず、遠くで吠える犬の声や、手近で鳴らす拍子木の音が、夜の深さを思わせる頃、急ぎの用の旅人でもあろう、小田原提灯《おだわらぢょうちん》で道を照らし、二人連れでスタスタと、東海道の方へ歩いて行った。
 と、木陰から人影が出た。
 無紋の黒の着流しに、お誂《あつら》い通りの覆面頭巾、何か物でも考えているのか、俯向《うつむ》きかげんに肩を落とし、シトシトとこっちへ歩いて来た。
 と、双方行き違おうとした。
 不意に武士は顔を上げた。
 つづいて右手《めて》が刀の柄へ、……ピカリと光ったのは抜いたのであろう。「キャッ」という悲鳴。「ワーッ」と叫ぶ声。つづいて再び「キャッ」という悲鳴。……地に転がった提灯が、ボッと燃え上がって明るい中に、斃れているのは二つの死骸。……斬り手の武士は数間の彼方《あなた》を、影のようにションボリと歩いていた。
 他ならぬ鏡葉之助であった。
 浅草の観世音、その境内の早朝《あさまだき》、茶店の表戸は鎖《と》ざされていたが、人の歩く足音はした。朝詣《あさまい》りをする信者でもあろう。
 一本の公孫樹《いちょう》の太い幹に、背をもたせ[#「もたせ」に傍点]かけて立っているのは、編笠姿《あみがさすがた》の武士であった。
 一人の女がその前を、御堂《みどう》の方へ小走って行った。
 武士がヒョロヒョロと前へ出た。居合い腰になった一瞬間、日の出ない灰色の空を切り、紫立って光る物があった。とたんに「キャッ」という女の悲鳴。首のない女の死骸が一つ、前のめりに転がった。ドクドクと流れる切り口からの血! 深紅の水溜りが地面へ出来た。
 だが斬り手の武士は、公孫樹の幹をゆるやかに廻り、雷門の方へ歩いて行った。鳩の啼き声、賽銭《さいせん》の音、何んの変ったこともない。
 両国橋の真ん中で、斬り仆された武士があった。
 笠森の茶店の牀几《しょうぎ》の上で、脇腹を突かれた女房があった。
 千住の遊廓《くるわ》では嫖客《ひょうかく》が、日本橋の往来では商家の手代が、下谷池之端《したやいけのはた》では老人の易者が、深川木場では荷揚げ人足が、本所|回向院《えこういん》では僧が殺された。
 江戸は――大袈裟な形容をすれば、恐怖時代を現じ出した。
 南北町奉行が大いに周章《あわ》てて、与力同心岡っ引が、クルクル江戸中を廻り出した。
 どうやら物盗りでもなさそうであり、どうやら意趣斬りでもなさそうであり、云い得べくんば狂人《きちがい》の刃傷、……こんなように思われるこの事件は、有司にとっては苦手であった。
 で容易に目付からなかった。
 まさか内藤家の家老の家柄、鏡家の当主葉之助が、辻斬りの元兇であろうとは、想像もつかないことである。
 だがやがてパッタリと、辻斬り沙汰がなくなった。
 内藤駿河守が江戸を立って、伊那高遠へ帰ったからであった。
 だが内藤家の行列が、塩尻の宿へかかった時、一つの事件が突発した。と云っても表面から見れば別に大したことでもなく、鏡葉之助が供揃《ともぞろ》いの中から、にわかに姿を眩《くら》ましただけであった。
 鏡家は内藤家では由緒ある家柄、その当主が逃亡したとあっては、うっちゃって置くことは出来なかった。
 八方へ手を分けて捜索した。しかし行方は知れなかった。

         三〇

 彼はいったいどうしたのだろう? いったいどこへ行ったのだろう?
 彼は八ヶ嶽へ行ったのであった。
 彼は母山吹の故郷《さと》! 彼《か》の血統窩人の部落! 信州八ヶ嶽笹の平へ、夢遊病者のそれのように、フラフラと歩いて行ったのであった。
 塩尻から岡谷へ抜け、高島の城下を故意《わざ》と避け、山伝いに湖東村を通り、北山村から玉川村、本郷村から阿弥陀ヶ嶽、もうこの辺は八ヶ嶽で、裾野《すその》がずっと開けていた。
 三日を費やして辿《たど》り着いた所は、笹の平の盆地であった。
 以前《まえかた》訪ねて来た時と、何んの変わったこと
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