」
と今度は町人が叫んだ。
「誰だ?」
と武士が叱咤《しった》した。
町人は葉之助を突き飛ばそうとした。が、葉之助は頸首《えりくび》を捉え、ギューッと地面へ押し付けた。
突然武士が刀を抜いた。ヒョイと葉之助は後へ退いた。刀は町人の首を切った。ヒーッと町人が悲鳴を上げた。
「しまった!」と武士は刀を引いた。
その時笛の音が帰って来た。塀の口から白い蛇が、荒れ狂って飛び込んで来た。手近の武士へ飛びかかった。
「ワッ」
と武士は悲鳴を上げた。ヨロヨロと塀へもたれかか[#「もたれかか」に傍点]った。白蛇も精力が尽きたと見え、体を延ばして動かなくなった。
ガックリ武士は首を垂れた。前のめり[#「のめり」に傍点]に地に斃れた。
町人と武士、そうして白蛇、三つの死骸を月が照らした。
不意に女の笑い声がした。
「多四郎! 多四郎! 思い知ったか! 妾《わたし》の怨みだ! 妾の怨みだ!」
葉之助は四辺を見廻した。女の姿は見えなかった。だが声は繰り返した。
「猪太郎! 猪太郎! よくおやりだ! お礼を云うよ、お母さんからね」
声はそのまま止んでしまった。
気が附いて葉之助は腕を捲くった。二の腕に出来ていた二十枚の歯形――人面疽《にんめんそ》が消えていた。
屋敷の中が騒がしくなった。人の走って来る気勢《けはい》がした。
葉之助は塀へ手を掛けた。身を翻《ひるがえ》すと塀を越した。
広場を横切って町の方へ走った。
と、誰かと衝突した。
「これは失礼」「これは失礼」
云い合い顔を隙《す》かして見た。
「や、これは北山先生!」
「おお、これは葉之助殿!」
「先生には今時分こんな所に?」
「万事は後で……ともかく一緒に……」
二人は町の方へ走って行った。
その翌日のことであった。神田の旅籠屋《はたごや》北山の部屋で、北山と葉之助とが話していた。
「……窩人《かじん》に云わせると宗介蛇、蘭語で云うとエロキロス、これは珍らしい毒蛇で、これに噛まれると、一瞬間に死んでしまう。しかも少しも痕跡《あと》を残さない。この毒蛇の特徴として、茴香剤《ういきょうざい》をひどく[#「ひどく」に傍点]好む。そいつを嗅《か》ぐと興奮する。で、例の白粉だが、云うまでもなく茴香剤なのさ、大槻玄卿が製したものだ。
ところが一昨日《おとつい》の晩のことだ。浅草観音の境内へ行き、偶然窩人達の話を聞いた。毒蛇を盗まれたと云っていた。はてな[#「はてな」に傍点]と俺は考えた。考えながら根岸へ行った。と、白粉が引かれてあった。口笛のような音がして、紐《ひも》のようなものが走って来た。そこで初めて感附いたものさ……エロキロスは、茴香剤を嗅がされると、喜びの余り音を立てる、一種歓喜の声なのだ……つまり三人の悪党どもは、森家から内藤家の寝所まで、茴香剤の線を引き、その上をエロキロスを走らせて、若殿を咬ませたのさ……ところで毒蛇エロキロスは、一度|丹砂剤《たんしゃざい》を嗅がされると、発狂をして死んでしまう。それを私《わし》は利用した。で昨夜根岸へ行った。すると白粉が引いてあった。そこで俺はその一所《ひとところ》へ、丹砂剤をうんと振り撒いたものさ。案の定エロキロスは走って来たが、そこまで来ると発狂し、元来た方へ引き返して行った」
「いかにもさようでございました。馳せ返って来た毒蛇は、帯刀様へ食い付きました」葉之助は頷いた。
「帯刀様の刃《やいば》で、紋兵衛も殺されたということだな」
「まずさようでございます。だが本来帯刀様は、私を切ろうとなすったので。それを私が素早く紋兵衛を盾に取ったので、いわば私が殺したようなもので」
「それはそうと葉之助殿、貴殿の幼名は猪太郎という、どうやら窩人の血統を受け継いでいるように思われる。母は、窩人の長《おさ》の杉右衛門の娘、山吹であったということだ。父は里の者で、多四郎という若者だそうだ……そのうち窩人と逢うこともあろう、よく聞き訊《ただ》してご覧なされ。これも一昨夜浅草で、山男、すなわち窩人どもから、偶然聞いた話でござるよ」
「母は山吹、父は多四郎、そうして私の幼名が、猪太郎というのでございますな? そうして八ヶ嶽の窩人の血統? ううむ」と葉之助は腕を組んだ。
二九
翌日鏡葉之助は、蘭医大槻玄卿の、悪逆非道の振る舞いにつき、ひそかに有司《ゆうし》へ具陳《ぐちん》した。
その結果町奉行の手入れとなり、玄卿邸の茴香畑は、人足の手によって掘り返された。はたして幾人かの男女の死骸が、土の下から現われた。で玄卿は召し捕られ、間もなく磔刑《はりつけ》に処せられた。
だが邪教水狐族の、秘密の道場へつづいていた、地下の長い横穴については、事実大槻玄卿も、知っていなかったということである。では恐らくその穴は、ずっと昔の
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