たいのさ」
 黄袋の口を檻の上へ傾《かし》げた。粉薬をサラサラと檻の中へこぼし[#「こぼし」に傍点]た。だが全部《みんな》はこぼさ[#「こぼさ」に傍点]なかった。半分がところで止めてしまった。
 粉薬が六匹の蛇へかかった。蛇は一斉に鎌首を上げた。プーッと頬を膨《ふく》らせた。全身をウネウネと蜒《うね》らせた。真っ直ぐに体を押っ立てた。長い蝋燭《ろうそく》が立ったようであった。俄然六匹は食い合いを始めた。
 ゾッとするような光景であった。
 まず一匹が咽喉《のど》を咬まれた。白い体が血にまみれ[#「まみれ」に傍点]た。と、グンニャリと倒れてしまった。長く延びて動かなくなった。死骸の上をのたくり[#「のたくり」に傍点]ながら、五匹の蛇は格闘をつづけた。また二匹目が食い殺された。つづいて三匹目が食い殺された。尚三匹は戦っていた。だが次々に死んで行った。最後の一匹も死んでしまった。
 若者は拳を握りしめていた。
 北山は気味悪く微笑した。
「まずこれで安心した……悪人の媒介《ばいかい》も根絶やしになった……そうして薬の利き目も解った……それじゃあご免よ。私は帰る」
 黄袋を懐中《ふところ》へ押し入れて、北山は小屋から外へ出た。

 やがてこの日の夜が来た。
 鏡葉之助は眼を覚ました。
 そこは真っ暗の部屋らしかった。
 葉之助の全身は弛《だる》かった。ひどく頭が茫然《ぼんやり》していた。手足の節々が痛かった。
「いったいここはどこだろう? 確かに自分の家ではない。……いつから俺は眠ったんだろう? ……一年も眠ったような気持ちがする」
 彼は四辺《あたり》を見廻した。灯火《ともしび》のない部屋の中には、人のいるらしい気勢《けはい》もなかった。彼はじっと考え込んだ。
「……それでも漸次《だんだん》思い出す……俺は最初に女を助けた。女を送って屋敷へ行った。大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷だった。それから毒を飲まされた。それから地下へ埋められた。それから地下の横穴を通った。それから水狐族の怪殿へ行った。それからウント奮闘した。それから町へ飛び出した。それから根岸へ警護に行った。地上に例の白粉があった。それから俺は広場で眠った。ではここは広場なのか?」
 彼は掌《てのひら》で探って見た。地面の代りに畳が触れた。
「いややはり家の中だ……それにしてもいったい何者が、いつ俺をこんな家の中へ、俺に知らせずに担ぎ込んだのだろう? ……人に担がれても知らないほど、眠っていたとは呆れ返るな……とにかく屋敷の様子を見よう」
 葉之助は立ち上がった。
 まず正面へ歩いて行った。そこには正しく床の間があった。ズッと右手へ歩いて行った。と、手先に襖がさわった。それをソロソロと引き開けた。出た所に廊下があった。その廊下を左手へ進んだ。幾個かの部屋が並んでいた。と、丁字形の廊下となった。網を掛けた雪洞《ぼんぼり》があった。
「大名か旗本の下屋敷だな」
 葉之助は直覚した。
 廊下の行き詰まりに庭があった。で、庭へ下りて行った。植え込みが隙間なく植えてあった。それを潜って忍びやかに歩いた。
 深夜と見えて人気がなかった。時々|鼾《いびき》の声がした。
 黒板塀がかかっていた。その根もとに蹲《うずく》まり、二人の人間が囁き合っていた。
 葉之助は素早く身を隠した。二人の話を聞こうとした。
 間が遠くて聞こえなかった。で、植え込みの間を潜り、ソロソロと二人へ近寄った。月が二人の真上にあった。二人の姿は朦朧《もうろう》と見えた。二人ながら覆面《ふくめん》をし、目立たない衣裳を纏《まと》っていた。一人は大小を差していた。しかし一人は丸腰であった。
 断片的に話し声が聞こえた。
「……恐らく今夜は邪魔はあるまい」
 武士の方がこう云った。
「……今夜は大丈夫でございましょう」
 町人の方がこう答えた。
「……ではソロソロ放そうか」
「それがよろしゅうございましょう」
「……薬は確かに撒いたろうな」
「その辺如才はありません」
 ここでしばらく話が絶えた。
 町人が棒を取り上げた。側に置いてあった棒であった。どうやら太い竹筒らしい。
 武士は二、三歩後へ退がった。町人は注意深く及び腰をした。
 町人はソロソロと手を延ばし、竹筒の先の臍《ほぞ》を取った。素早く竹筒を地上へ置いた。そうしてサッと後へ退がった。
 二人の前から白粉が、一筋塀裾へ引かれていた。塀の一所に穴があった。穴を通って白粉が、戸外《そと》の方まで引かれていた。
 と、微妙な音がした。口笛でも吹くような音であった。竹筒の中からスルスルと、一筋の白い紐が出た。白粉の上を一散に、塀の外へ走り出した。
「あっ」
 と葉之助は声を上げた。植え込みから飛び出した。そうして町人へ組み付いた。

         二八

「あっ
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