ている」
「以前にも一度ありました」
「こいつの所業に相違ない」
「莫迦《ばか》な奴だ、眠っております」
「いったいこいつ何者であろう?」
 そこで町人は覗き込んだ。
「おっ、これは葉之助殿だ!」
「何、葉之助? 鏡葉之助か?」
「はい、帯刀様、さようでございます」
「そうか」
 と武士は腕を組んだ。
「鏡葉之助とあってみれば斬ってすてることも出来ないな」
「とんでもないことで。それは出来ません」
「と云って捨てては置かれない」
「私に妙案がございます」
 町人は武士の耳の辺で、何かヒソヒソと囁《ささや》いた。
「うむ、こいつは妙案だ」
「では」と云うと町人は、懐中《ふところ》へスッと手を入れた。取り出したのは白布であった。それを葉之助の顔へ掛けた。
 しばらく二人は見詰めていた。
「もうよろしゅうございましょう」
 町人はこう云うと白布を取った。それから葉之助を抱き上げた。葉之助は死んだように他愛がなかった。
 武士が葉之助の頭を抱え、町人が葉之助の足を持った。
 森帯刀の屋敷の方へ、二人はソロソロと歩いて行った。上野の山に遮《さえぎ》られて、火事の光も見えなかった。根岸一帯は寝静まっていた。
 葉之助を抱えた二人の姿は、文字通り誰にも見られずに、森帯刀家の裏門から、屋敷の中へ消えてしまった。
 闇ばかりが拡がっていた。習々《しゅうしゅう》と夜風が吹いていた。

         二四

 この頃江戸の真ん中では、窩人と水狐族との闘争《たたかい》が、凄《すさま》じい勢いで行われていた。
 種族と種族との争いであった。宗教と宗教との争いであった。先祖から遺伝された憎悪と憎悪とがぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合った争いであった。
 火事の光はここまでも届き、空が猩々緋《しょうじょうひ》を呈していた。家々の屋根が輝いて見えた。
 幾群《いくむれ》かに別れて切り合った。槍、竹槍、刀、棒、いろいろの討ち物が閃めいた。悲鳴や怒号が反響した。
 一群がパタパタと逃げ出した。他の群がそれを追っかけた。逃げた群は路地へ隠れた。他の群はそれを追い詰めた。逃げた群が盛り返して来た。路地で格闘が行われた。
 数人が人家へ逃げ込もうとした。その家では戸を立てた。家人は内からその戸を抑えた。数人がそこへ追っかけて来た。そこでも切り合いが始まった。
 人家の屋根へ上がる者があった。その屋根の上に敵がいた。取っ組んだまま転がり落ちた。
 一人の武士《さむらい》が竹槍で突かれた。それは迷信者の一人であった。他の武士が突進した。竹槍を持った窩人の一人が、武士のために手を落とされた。
 石が雨のように降って来た。額を割られて呻く者があった。
 二、三人パタパタと地へ斃れた。窩人だか水狐族だか解らなかった。死骸を乗り越えて進む者があった。
 岩太郎の武者振りは壮観《みもの》であった。
 藤巻柄の五尺もある刀を、棒でも振るように振り廻した。またたく間に数人を切り斃した。一人の敵が飛びかかって来た。横撲りに叩き伏せた。ムラムラと四、五人が掛かって来た。大廻しに刀を振り廻した。四、五人が後へ逃げ出した。彼は突然振り返った。一人の敵が狙っていた。
「畜生!」と叫ぶと肩を切った。プーッと霧のように血が吹いた。
 杉右衛門は窩人に守られていた。往来の真ん中へ突っ立っていた。声を嗄《か》らして彼は叫んだ。
「大将を討ち取れ! 大将を討ち取れ!」
 彼の顔は光っていた。火事の光が照らしたからであった。彼は槍を提《ひっさ》げていた。その穂先から血が落ちていた。
 水狐族の男女の教主達も、信者に守られて立っていた。二人ながら大声で叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
「一人も遁《の》がすな! 一人も遁がすな」
 窩人の群は教主を目掛け、大波のように寄せて行った。しかし途中で遮《さえぎ》られた。
 水狐族の群が杉右衛門を目掛け、あべこべにドッと押し寄せて行った。これも途中で遮られた。
 火事は容易に消えなかった。空は益※[#二の字点、1−2−22]赤くなった。
 火事を眺める群集と、格闘を眺める群集とで、往来は人で一杯になった。
 死骸がゴロゴロ転がった。流された血で道が辷《すべ》った。その血へ火の光が反射した。
 ワーッ、ワーッ、という鬨《とき》の声!
 その時見物が叫び出した。
「それお役人のご出張だ!」
 御用提灯《ごようぢょうちん》が幾十となく、京橋の方から飛んで来た。八丁堀の同心衆が、岡っ引や下っ引を連れて、この時走って来たのであった。
 瞬間に格闘は終りを告げた。
 窩人も水狐族も死骸を担ぎ、八方に姿を隠してしまった。
 しかし二種族の憎悪と復讐心は、決して終りを告げたのではなかった。明治大正の今日に至っても尚二種族は田舎に都会に、あらゆる複雑の組織の下に、復讐し合ってい
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