人と擦れ違ったが、そうだそうだ北山先生だ」
 ようやく葉之助は思い中《あた》った。
「危険が去ったとは云われない。今夜はここで夜明かしをしよう」
 葉之助は決心した。
 体が綿のように疲労《つか》れていた。彼は草の上へ横になった。引き込まれるように眠くなった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう思いながらもウトウトと、眠りに入ってしまいそうであった。
 夜風が空を渡っていた。木立に中って習々《しゅうしゅう》と鳴った。それが彼には子守唄に聞こえた。
 彼はとうとう眠ってしまった。

 鶯谷の暗闇で、葉之助と擦れ違った人物は、谷中の方へ走って行った。
 芝の方にあたって火の手が見えた。
「や、これは大きな火事だ」吃驚《びっく》りしたように呟《つぶや》いた。
 それは天野北山であった。
「殿のお屋敷は大丈夫かな?」
 走り走りこんなことを思った。
「葉之助殿はどうしたろう? 殿の下屋敷を警戒するよう、あれほどしっかり[#「しっかり」に傍点]頼んでおいたのに、今夜のような危険な時に、その姿を見せないとは、甚《はなは》だもってけしからぬ[#「けしからぬ」に傍点]次第だ。だがあるいは病気かもしれない。……
 だんだん火事は大きくなるな。行って様子を見たいものだ。だが俺の出府した事は、殿にも家中にも知らせてない。顔を出すのも変な物だ」
 谷中から下谷へ出た。
「さてこれからどうしたものだ。葉之助殿には至急会いたい。窩人の血統だということを教えてやる必要があるようだ」
 火事は漸次《だんだん》大きくなった。下谷辺は騒がしかった。人々は門に立って眺めていた。
「とにかくこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠《かご》へでも乗り、葉之助殿の屋敷を訪ねてみよう。頼みたいこともあるのだからな」
 駕籠屋が一軒起きていた。
「おい、芝までやってくれ」
「へい、よろしゅうございます」
 威勢のいい若者が駕籠を出した。で北山はポンと乗った。
 駕籠は宙を飛んで走り出した。
 銀座手前まで来た時であった。前方にあたって鬨の声が聞こえた。大きな喧嘩《けんか》でも起こったようであった。
「旦那旦那大喧嘩です」
 駕籠|舁《か》きはこう云って駕籠を止めた。
「裏通りからやるがいい」
 駕籠の中から北山が云った。
 そこで駕籠は木挽町《こびきちょう》へ逸《そ》れた。

         二三

 火元はどうやら愛宕下らしい。木挽町あたりも騒がしかった。かてて大喧嘩というところから、人心はまさに兢々としていた。
「火消し同士の喧嘩だそうだ」「いや浅草の芸人と、武士との喧嘩だということだ」「いや賭場が割れたんだそうだ」「いや謀反人だと云うことだ」「いや、一方は芸人で、一方は神様だということだ」「神様が喧嘩をするものか」
 往来に集まった人々は、口々にこんなことを云っていた。
 駕籠はズンズン走って行った。芝口へ出、露月町《ろげつちょう》を通り、宇田川町、金杉橋、やがて駿河守の屋敷前へ来た。
 この辺もかなり騒がしかった。
「ここで下ろせ」
 と北山は云った。
 駕籠から下りた北山は、葉之助の屋敷の玄関へ立った。
 案内を乞うと声に応じ、取り次ぎの小侍が現われた。
「これはこれは北山先生で」
「葉之助殿ご在宅かな」
「いえ、お留守でございます」気の毒そうに小侍は云った。
「ふうむ、お留守か、どこへ行かれたな」
「はいこの頃は毎晩のように、どこかへお出かけでございます」
「ははあさようか、毎晩のようにな」
 ――それではやはり葉之助は、下屋敷へ警戒に行くものと見える。今夜も行ったに相違ない。きっと駈け違って逢わなかったのだろう。
 天野北山はこう思った。
「葉之助殿お帰りになったら、俺《わし》が来たとお伝えくだされ。改めて明朝お訪ね致す」
「大火の様子、ご注意なされ」
 で北山は往来へ出た。
 そうして新しく駕籠を雇い、神田の旅籠屋《はたごや》へ引っ返した。
 葉之助は草の上に眠りこけていた。決して不覚とせめる[#「せめる」に傍点]ことは出来ない、彼は実際一晩のうちに、余りに体を使い過ぎた。これが尋常の人間なら、とうに死んでいただろう。
 だが眠ったということは、彼にとっては不幸であった。
 黒々と空に聳えている森帯刀家の裏門が、この時音もなくスーと開いた。
 忍び出た二つの人影があった。一人は立派な侍で、一人はどうやら町人らしかった。
 地上に引かれた筋に添い、葉之助の方へ近寄って来た。
 間もなく葉之助の側まで来た。
 二人は暗中《あんちゅう》で顔を見合わせた。
「紋兵衛、これで秘密が解った」こう云ったのは武士であった。「ここに眠っているこの侍が、俺《わし》達の計画の邪魔をしたのだ」
「はい、どうやらそんな[#「そんな」に傍点]ようで」
「ここで白粉が蹴散らされ
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