杉右衛門の背後に岩太郎がいた。
「時は来た!」と杉右衛門が云った。「水狐族めと戦う時が!」
 窩人達は一斉に立ち上がり、杉右衛門の周囲を取り巻いた。「おい岩太郎話してやれ」杉右衛門が岩太郎にこう云った。
 つと岩太郎は前へ出た。
「みんな聞きな、こういう訳だ。火事だと聞いて見に行った。烏森《からすもり》の辻まで行った時だ、真ん丸に塊まった一団の人数が、むこうからこっちへ走って来た。誰かに追われているようだった。武士《さむらい》もいれば町人もいた。男もいれば女もいた。その時俺は変な物を見た。若い女と若い男だ。人の背中に背負われていた。衣裳の胸に刺繍《ぬいとり》があった。それを見て俺は仰天《ぎょうてん》した。青糸で渦巻きが刺繍《ぬいと》られていたんだ。白糸で白狐が刺繍られていたんだ。水狐族めの紋章ではないか。そいつら二人は孫だったのだ。水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》のな! さあ立ち上がれ! やっつけてしまえ! 間もなくこっちへやって来るだろう。敵の人数は二百人はあろう。だが、味方も五十人はいる。負けるものか! やっつけてしまえ! ……俺は急いで取って返した。一人で切り込むのはわけ[#「わけ」に傍点]がなかったが、だがそいつはよくないことだ! あいつらは種族の共同の敵だ! だから皆んなしてやっつけなけりゃあならねえ。掛け小屋へ帰って武器を取れ! そうして一緒に押し出そう」
 窩人達はバラバラと小屋の方へ走った。
 現われた時には武器を持っていた。
 長の杉右衛門を真ん中に包み、副将岩太郎を先頭に立て、一団となって走り出した。
 彼らは声を立てなかった。足音をさえ立てまいとした。妨害されるのを恐れたからであった。
 境内を出ると馬道であった。それを突っ切って仲町へ出た。田原町の方へ突進した。清島町、稲荷町、車坂を抜けて山下へ出、黒門町から広小路、こうして神田の大通りへ出た。
 神田辺りはやや騒がしく、町人達は門へ出て、芝の大火を眺めていた。
 その前を逞《たくま》しい男ばかりの、五十人の大勢が、丸く塊まって通り抜けた。刀や槍を持っていた。
 町の人達は仰天した。だが遮《さえぎ》ろうとはしなかった。その威勢に恐れたからであった。
 芝の火事は大きくなったと見え、火の手が町の屋根越しに、天を焼いて真っ赤に見えた。
 窩人の一団は走って行った。室町を経て日本橋を通って京橋へ出た。
 こうして一団は銀座へ出た。
 と、行手から真っ黒に塊まり、大勢の人影が走って来た。
 それは水狐族と信者とであった。
 こうして二種族は衝突した。
 初めて鬨《とき》の声が上げられた。

         二二

 鏡葉之助はどうしたろう?
 この時鏡葉之助は、裏町伝いに根岸に向かい、皆川町の辺を走っていた。
 彼はたった[#「たった」に傍点]一人であった。獣達の姿は見えなかった。豹も狼も土佐犬も、道々火消しや役人や、町の人達に退治られた。たまたま死からまぬかれ[#「まぬかれ」に傍点]た獣は、山を慕って逃げてしまった。
 だがどうして葉之助は、水狐族の群に追い縋り、討って取ろうとはしないのだろう?
 彼は途中で思い出したのであった。
「殿の根岸の下屋敷を警戒するのが役目だった筈《はず》だ」
 で彼は道を変え、根岸を指して走っていた。雉子《きじ》町を通り、淡路《あわじ》町を通り、駿河台へ出て御茶ノ水本郷を抜けて上野へ出、鶯谷《うぐいすだに》へ差しかかった。
 左右から木立が蔽《おお》いかかり、この時代の鶯谷は、深山《みやま》の態《さま》を呈していた。
 と行手から来る者があった。ひどく急いでいるようであった。空には月も星もなく、その空さえも見えないほどに、木立が頭上を蔽うていた。で四辺は闇であった。
 闇の中で二人は擦れ違った。
「はてな、何んとなく知った人のようだ」
 葉之助は背後《うしろ》を振り返って見た。
 すると擦れ違ったその人も、どうやらこっちを見たようであった。
 が、その人も急いでいれば、葉之助も心が急《せ》いていた。そのまま二人は別れてしまった。
 葉之助は根岸へ来た。
 殿の下屋敷の裏手へ行った。
「あっ」と彼は仰天した。地面に一筋白々と、筋が引かれているではないか。
「しまった!」と彼はまた云った。
 しかし間もなくその筋が、一所《ひとところ》足で蹴散らされ、白粉《はくふん》が四散しているのを見ると、初めて胸を撫で下ろした。
 それと同時に不思議にも思った。
「いったい誰の所業《しわざ》だろう?」
 首を傾げざるを得なかった。
「この白粉の重大な意味は、俺と北山《ほくざん》先生とだけしか知っている者はない筈だ。俺は蹴散らした覚えはない。では北山先生が、今夜ここへやって来て、蹴散らしたのではあるまいか。……おっ、そう云えば鶯谷で、知ったような
前へ 次へ
全92ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング