人の群は八方へ散った。
猛獣の群は塔を見上げ、ウオーッ、ウオーッと咆吼《ほうこう》した。
そうして体を寄せ合った。
突然一匹の狼が、葉之助の横顔を斜めに掠《かす》め、窓からヒラリと飛び下りた。
葉之助はハッとした。
「可哀そうに粉微塵《こなみじん》だ」
いや、粉微塵にはならなかった。体を寄せ合った獣の上へ、狼の体が落下した。蒲団の上へでも落ちたように、狼の体は安全であった。
すぐに狼は飛び起きた。そうして仲間の狼へ、自分の体をピッタリと付けた。そうして塔上の侶《とも》を呼んだ。ウオーッ、ウオーッと侶を呼んだ。
と、葉之助の横顔を掠め、次々に狼が窓から飛んだ。
みんな彼らは安全であった。
飛び下りるとすぐに起き直り、仲間の体へくっ付いた。そうして誘うようにウオーッと吠えた。
塔内の狼は一匹残らず、窓から地上へ飛び下りた。
葉之助とそうして土佐犬ばかりが、塔の中へ残された。
「よし」
と葉之助は頷いた。
一匹の土佐犬を抱き抱《かか》え、窓から下へ投げ下ろした。中途で一つもんどり[#「もんどり」に傍点]打ち、キャンと一声叫んだが、犬は微傷さえしなかった。群がり集まっている仲間の上へ安全に落ちて起き上がった。
次々に犬を投げ下ろした。
彼らはみんな安全であった。
とうとう葉之助一人となった。
煙りは塔を立ちこめた。
ユサユサ塔が揺れ出した。
すぐにも塔は崩れるだろう。
獣達は彼を呼んだ。飛び下りろ飛び下りろと彼を呼んだ。
葉之助は決心した。窓縁へ足をかけ、両刀を高く頭上へ上げ、キッと下を見下ろした。
「ヤッ」と彼は一声叫び、窓から外へ身を躍らせた。
熊の背中が彼を受けた。彼はピョンと飛び上がった。綿の上へでも落ちたようであった。
とたんに塔が傾いた。火の粉がパラパラと八方へ散った。幾軒かの建物へ飛び火した。あちこちから火の手が上がった。
大門の開く音がした。
人の走り出る音がした。
町の火の見で半鐘《はんしょう》が鳴った。
四方《あたり》は昼のように明るかった。男女の信者が火の中で、右往左往に逃げ廻った。
猛獣がそれを追っかけた。
ふたたび人獣争闘が、焔の中で行われた。
葉之助は両刀を縦横に揮《ふる》い、当たるを幸い切り捲くった。
猛獣が彼を警護した。
彼は大門の前まで来た。門の外は往来であった。それは大江戸の町であった。
一団の人影が走って行った。教主の一団と想像された。
「それ!」
と葉之助は声をかけた。猛獣の群が追っかけた。葉之助は直走《ひたはし》った。
火消しの群が走って来た。町々の人達が駈け付けて来た。
ワーッ、ワーッと鬨《とき》の声を上げた。
猛獣の群が走るからであった。
返り血を浴びた葉之助が、血刀を提げて走るからであった。
獣の群は狂奔《きょうほん》した。
おりから空は嵐であった。火が隣家へ燃え移った。
二一
教主の一団が走って行った。その後を猛獣が追っかけた。そうしてその後から葉之助が走った。
深夜の江戸は湧き立った。邪教の道場は燃え落ちた。火が八方へ燃え移った。町火消し、弥次馬、役人達が、四方八方から駈けつけて来た。
悲鳴、叫喚、怒号、呪詛。……ここ芝《しば》の一帯は、修羅の巷《ちまた》と一変した。
その同じ夜のことであった。
遠く離れた浅草は、立ち騒ぐ人も少かった。しかしもちろん人々は、二階や屋根へ駈け上がり、遥かに見える芝の火事を、不安そうに噂した。
「芝と浅草では離れ過ぎていらあ。対岸の火事っていう奴さ。江戸中丸焼けにならねえ限りは、まず安泰というものさ。風邪でも引いちゃあ詰まらねえ、戸締りでもして寝るがいい」
こんなことを云って引っ込む者もあった。神経質の連中ばかりが、いつまでも芝の方を眺めていた。
観音堂の裏手の丘から、囁く声が聞こえて来た。
「おい、芝が火事だそうだ」
「江戸中みんな焼けるがいい」
「そうして浮世の人間どもが、一人残らず焼け死ぬがいい」
「そうして俺ら窩人ばかりが、この浮世に生き残るといい」
夜の闇が四辺《あたり》を領していた。窩人達の姿は朦朧《もうろう》としていた。立っている者、坐っている者、歩いている者、木へ上っている者、ただ黒々と影のように見えた。
遥か彼方《あなた》の境内《けいだい》の外れに、菰《こも》張りの掛け小屋が立っていた。興行物《こうぎょうもの》の掛け小屋であった。窩人達の出演《で》ている掛け小屋であった。その掛け小屋の入り口の辺に、豆のような灯火《ともしび》がポッツリと浮かんだ。それが走るように近寄って来た。火の玉が闇を縫うようであった。窩人達の側まで来た。それは龕灯《がんどう》の火であった。龕灯の持ち主は老人であった。窩人の長《おさ》の杉右衛門で、
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