松明《たいまつ》の火であった。つづいて一点また一点、松明の火が現われた。
 大勢の人が屋根の上に、一列に並んで立っていた。
 そうしてその中には教主もいた。男女二人の教主がいた。
 何かが始まろうとしているらしい。何かを始めようとしているらしい。
 何をしようとするのだろう? と、ガチンと音がした。「ウオーッ」と唸る熊の声がした。檻を誰かが開けたらしい。三頭の熊がしずしずと檻から外へ現われ出た。それが松明の火で見えた。続いてガチンと音がした。
 無数の狼が先を争い、檻の中から走り出た。

         一六

 教徒達の意図は証明された。彼らは葉之助を惨酷《ざんこく》にも、猛獣に食わせようとするのであった。
 邪教徒らしいやり方であった。敢《あえ》て葉之助ばかりでなく、これまで幾人かの人間が、猛獣の餌食《えじき》にされたのであった。裏切り者と目星を付けるや、彼らは用捨なくその者を捕えて、人知れず檻の中へ入れたものであった。猪の食っていた何かの骨! それは人間の骨なのであった。ただし葉之助は手強《てごわ》かった。捕えることが出来なかった。そこで猛獣の檻をひらき、四方を囲んだ広い空地で、食い殺させようとしたのであった。
 そうして教主をはじめとし、大勢の教徒達が屋根の上から、それを見ようとしているのであった。
 羅馬《ローマ》にあったという演武場! 西班牙《スペイン》に今もある闘牛場! それが大江戸にあろうとは!
 信じられない事であった。信じられない事であった。
 が、厳たる事実であった。現に猛獣がいるではないか。ジリジリ逼《せま》って来るではないか。
 そうだ猛獣は逼って来た。
 狼群は円い輪を作り、葉之助の周囲《まわり》を廻り出した。しかし決して吠えなかった。訓練されているからであった。吠えたら世間に知られるだろう。世間に知られたら露見の基であった……で、かすかに唸るばかりであった。
 もちろん熊も吠えなかった。ただ「ウオーッ」と唸るだけであった。
 さすがの鏡葉之助も、頭髪逆立つ思いがした。
「もう駄目だ、もういけない」
 彼は悲惨にも観念した。人間同士の闘いなら、まだまだ遁がれる道はあった。相手は群狼と熊とであった。遁がれることは出来なかった。葉之助は脇差しを投げ出した。それから大地へ端座した。眼を瞑《つ》むり腕を組んだ。猛獣の襲うに任せたのであった。
 グルグルグルグル狼の群は、彼の周囲を駈け廻った。その輪をだんだん縮めて来た。
 熊は三頭鼻面を揃えジリジリと前へ押し出して来た。
 が、熊も狼も、容易に飛び付こうとはしなかった。
 その時突然奇蹟が起こった。
 まず一匹の大熊が、葉之助の前へゴロリと寝た。そうして葉之助の足を嘗《な》めた。さも親しそうに嘗めるのであった。つづいて二匹の熊が寝た。そうしてこれも親しそうに、葉之助の手をベロベロ嘗めた。と、狼が走るのを止めて、葉之助の周囲《まわり》へ集まって来た。そうして揃って後脚《あとあし》で坐り、前脚の間へ鼻面を突っ込み、上眼を使って葉之助を見た。それは親し気な様子であった。これはいったいどうしたのだろう? どういう魔術を使ったのだろう? 魔術ではない。奇蹟でもない。これには理由があるのであった。
 葉之助自身は知らないのではあったが、彼は窩人《かじん》の血を受けていた。彼の母は山吹であった。山吹は杉右衛門の娘であった。杉右衛門は窩人の長《おさ》であった。里の商人《あきんど》多四郎と、窩人の娘の山吹とが八ヶ嶽山上|鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》で、恋の生活を営んでいるうちに、孕《みごも》り産んだのが葉之助であった。すなわち幼名猪太郎というのが、彼葉之助に他ならないのであった。
 ところで窩人と山の獣とは、ほとんど友人《ともだち》の仲であった。決して両個は敵同士ではなかった。
 そこでこういう奇蹟めいたことが、切羽《せっぱ》詰まったこんな場合に、両個の間に行われたのであった。
 足を嘗められた葉之助は、ブルッと顫《ふる》えて眼を開いた。そうして奇怪な光景を見た。
 もちろん彼には何んのために、獣達が親《した》しみを見せるのか、解《かい》することが出来なかった。しかしそれらの獣達に、害心のないことは見て取られた。彼は憤然と飛び上がった。瞬間に彼は自分自身に、神力のあることを直感した。奇蹟を行い得る偉大な威力! それがあることを直感した。で、彼は叫び出した。
「熊よ狼よ俺の味方だ! さああいつらをやっつけ[#「やっつけ」に傍点]てくれ! 俺が命ずる。やっつけ[#「やっつけ」に傍点]てしまえ!」
「ウオーッ」と熊は初めて吠えた。そうして門の方へ突進した。
「ウオーッ」と狼群も吠え声を上げた。そうして門の方へ突進した。
 葉之助は猪の檻《おり》を開いた。猪は牙を噛んで突進した。
 
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