那、女がクルリとこっちを向き、ヒューッと何か投げつけた。危うく避けたその間に、二人の姿は掻き消えた。投げられた物は紐であった。紐が彼へ飛び掛かって来た。それは一匹の毒蛇であった。
で、三つに斬り払った。
行手は厳重の石垣であった。越して逃げることは出来なかった。
でまた彼は引き返した、こうして以前の場所へ来た。
反対の側にも建物があった。地面から五、六階の石段があり、それを上ると戸口であった。もちろんその戸は閉ざされていた。そこで彼は石段を上がり、その戸をグイと引っ張って見た。と、意外にも戸があいた。とたんに彼は転がり落ちた。転がったのが天佑《てんゆう》であった。戸が開くと同時に恐ろしい物が、彼を目掛けて襲いかかって来た。それを正面《まとも》に受けたが最後、彼は微塵《みじん》にされただろう。
一五
円錐形の巨大な石が――今日で云えば地均轆轤《じならしろくろ》が、素晴らしい勢いで落下したのであった。
ドーンと戸口は締められた。後は寂然《しん》と音もしない。しかし無数の邪教徒が、四方八方から彼を取りこめ、討ち取ろう討ち取ろうとしていることは、ほとんど疑う余地はなかった。
人声のないということは、その凄さを二倍にした。立ち騒がないということは、その恐ろしさを二倍にした。
今は葉之助は途方に暮れた。
「どうしたものだ。どうしてくれよう。どこから、逃げよう。どうしたらいいのだ」
混乱せざるを得なかった。
とまれじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。その建物を東の方へ廻った。と、建物の角へ来た。
曲がった眼前に大入道が、雲突くばかりに立っていた。
「えい!」一声斬りつけた。カーンという金の音がした。そうして刀が鍔《つば》もとから折れた。
大入道は邪神像であった。
「しまった!」と彼は思わず叫び、怨《うら》めしそうに刀を見た。折れた刀は用に立たない。で彼は投げ棄てた。そうして脇差しを引き抜いた。
こうしてまたも葉之助は、後へ帰らざるを得なかった。さて元の場所へ帰っては来たが、新たにとるべき手段はない。茫然《ぼんやり》佇《たたず》むばかりであった。勇気も次第に衰えて来た。だがこのまま佇んでいたのでは、遁がれる道は一層なかった。
そこで無駄とは知りながら、西の方へ廻って行った。例によって角へ来た。用心しながらゆるゆる曲がった。と行手に石垣があり、立派な門が建っていた。
「ははあ門があるからには、門の向こう側は往来だろう。よしよしあの門を乗り越してやれ」
門の柱へ手を掛けた。ひらり[#「ひらり」に傍点]と屋根へ飛び上がった。そうして向こう側を隙《す》かして見た。
思わず彼は「あっ」と云った。そこに大勢の人影が夜目にも解る弓姿勢で、タラタラと並んでいたからであった。弓を引き絞り狙《ねら》っているのだ。
彼は背後《うしろ》を振り返って見た。そこでまた彼は「あっ」と叫んだ。十数人の人影が、鉄砲の筒口を向けていた。
彼はすっかり[#「すっかり」に傍点]計られたのであった。腹背敵を受けてしまった。もう助かる術《すべ》はない。飛び道具には敵すべくもない。
が、しかし彼の頭を、その時一筋の光明が、ピカリと光って通り過ぎた。
「ここは江戸だ。しかも深夜だ、よもや鉄砲を撃つことは出来まい。撃ったが最後世間へ知れ、有司《ゆうし》の疑いを招くだろう。邪教徒の教会はすぐに露見だ。一網打尽に捕縛《ほばく》されよう。……断じて鉄砲を撃つ筈はない……弓手《ゆみて》の方さえ注意したら、まず大丈夫というものだ」
で、彼は屋根棟へ寝た。
一筋の矢が飛んで来た。パッと刀で切り払った。つづいて二本飛んで来た。幸いにそれは的を外れた。
寝たまま葉之助は考えた。
「高所に上って矢を受ける。まるで殺されるのを待つようなものだ。身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。弓手の真ん中へ飛び下りてやろう」
四本目の矢が飛んで来た。それを二つに切り折ると共に、ヤッとばかりに飛び下りた。
計略たしか図にあたり、弓手は八方へ逃げ散った。しかし葉之助の思惑は他の方面で破られた。そこは決して往来ではなかった。いっそう広い中庭であった。
隙《す》かして見れば所々に、幾個《いくつ》か檻《おり》が立っていた。「はてな?」と葉之助は不思議に思った。
一つの檻へ近寄って見た。三匹の熊が闇の中で爛々とその眼を怒らせていた。
これには葉之助もゾッとした。もう一つの檻へ行って見た。十数頭の狼が、グルグルグルグル檻に添ってさもいらいら[#「いらいら」に傍点]と走っていた。ここでも葉之助はゾッとした。さてもう一つの檻の前へ行った。一匹の猪が牙《きば》を剥き、何かの骨を噛み砕いていた。と、その時一点の火光が、門の屋根棟へ現われた。それは
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