いた。
他流でいうところの「燕返《つばめがえ》し」、一刀流で云う時は、「金翅鳥王剣座《きんしちょうおうけんざ》」――そいつで切って棄てたのであった。
金翅鳥片羽九万八千里、海上に出でて竜を食う、――その大気魄に則《のっと》って、命名したところの「五点之次第」で、さらに詳しく述べる時は、敵の刀を宙へ刎ね、自刀セメルの位置をもって、敵の真胴《しんどう》を輪切るのであった。敵を斃すこと三人であった。ワーッと叫ぶと信者の群は、ムラムラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。得物得物を打ち振り打ち振り、十数人がかかって来た。
一三
鏡葉之助は三人を切った。大概の者ならこれだけで、精気消耗する筈であった。葉之助の精気も無論|疲労《つか》れた。しかし彼は恐ろしい物を見た。いやいやそれは恐ろしいというより、むしろ憎むべきものであった。彼を不断に苦しめている「悪運命」を見たのであった。讐敵《しゅうてき》の象徴を見たのであった。二人の教主の着物の胸に刺繍《ししゅう》されてあった奇怪な模様! それを彼は見たのであった。憎むべき、憎むべき憎むべき模様!
彼の勇気は百倍した。そうして彼は決心した。「殺されるか殺すかだ! これは生優《なまやさ》しい敵ではない! 助かろうとて助かりっこはない! 生け捕られたら嬲《なぶ》り殺しだ。……相手を屠《ほふ》るということは、俺の体に纏《まつ》わっている、呪詛《のろい》を取去《のぞ》くということになる。相手に屠られるということは、呪詛に食われるということになる。……生きる意《つも》りで働いては駄目だ! 死ぬ決心でやっつけてやろう! こうなれば肉弾だ! 生命を棄てて相手を切ろう! ……おおおお集まって来おった[#「おった」に傍点]な。……とてもまとも[#「まとも」に傍点]では叶わない。こうなれば手段を選ばない。あらゆる詭計《きけい》を施してやれ」
十人の武士が逼《せま》って来た。
やにわに飛び込んだ葉之助は、切りよい左手の一人の武士を、ザックリ袈裟に切り倒した。とたんに自分もツルリと辷り、バッタリ俯向《うつむ》けに床へ倒れた。
ワッと叫んだ残りの九人、乱刃を葉之助へ浴びせかけた。一髪の間に葉之助は寝ながら刀で足を払った。一刀流の陣所払い! 負けたと見せて盛り返し、一挙に多勢を屠る極意、しかし普通の場合には、卑怯《ひきょう》と目《もく》して使わない。死生一如と解した時、止むなく使う寝業であった。
果然九人は一時に、足を薙《な》がれてぶっ倒れた。
飛び上がった葉之助、なだれる信徒の後を追い戸口の方へ突撃《ひたはし》った。そうして「面部斬り」――で斬り立てた。
胆を冷やさせる「面部斬り」――相手の生命を取るのではなく、獅子《しし》が群羊を駆るように、大勢の中へ飛び込んで、柄短《つかみじ》かの片手斬り、敵の顔ばかりを中《あた》るに任せ、颯々《さっさつ》と切る兵法であった。伊藤一刀斎景久が、晩年に工夫した一手であって、場合によっては刀を返し、柄頭で敵の鼻梁《はなばしら》を突き、空いている方の左手で、敵の人中《じんちゅう》を拳《こぶし》当て身! ただしこの術には制限があって、誰にも出来るというものではなかった。すなわち片手で自由自在に、大刀を揮《ふる》うだけの膂力《りょりょく》あるもの、そうして軽捷《けいしょう》抜群の者と自《おのずか》ら定《き》められているのであった。
で、もちろん封じ手で、印可以上に尊ばれ、人を見て許すことになっていた。
また一名「木の葉返し」とも云った。風に吹き立つ枯葉のように、八方分身十方隠れ、一人の体を八方に分《わ》かち、十方に隠れて出没し! 敵をして奔命《ほんめい》に疲労《つか》れしめ、同士討ちをさせるがためであった。
はたして信徒達は騒ぎ立った。風に木の葉が翻《ひるがえ》るように、百畳敷の大広間を、右往左往に逃げ惑った。
「裏切り者がいる! 裏切り者がいる!」
「一人ではない! 敵は多勢だ!」
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
信徒同士組打ちをした。互いに斬り合う者もあった。松明《たいまつ》の火が吹き消された。ヒーッと女達は悲鳴を上げた。バタバタと倒れる音がした。器類がころがっ[#「ころがっ」に傍点]た。画像がべりべりと引き裂かれた。
「助けてくれーエッ」
と叫ぶ者があった。倒れた信徒の体の上を、無数の人が踏んで走った。ムクムクと戸口から逃げはじめた。
葉之助の策略は成功した。
混乱に次いで混乱が起こり、収拾することが出来なかった。
「静まれ静まれ敵は一人だ!」
心掛けある信徒でもあろう。一人の者が大音に叫んだ。ツ[#「ツ」に傍点]と葉之助は走り寄り、その叫び主を斬り落とした。
「灯火《あかり》を点けろ! 灯火を点けろ!
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