と自由だったあの時代! 俺は夢にさえ思い出す」
「漂泊《さすらい》の旅の二十年! 早く故郷へ帰りたいものだ」
「星が飛んだ!」
とまた誰かが云った。
虫の声が鳴きつづけた。
夜烏《よがらす》がひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]梢で騒いだ。おおかた夢でも見たのだろう。
窩人達は眠ろうとした。
しかし彼らは眠られないらしい。
そこで彼らは話し出した。
彼らは浅草奥山の、見世物小屋の太夫達であった。
「八ヶ嶽の山男」
――こういう看板を上げている、その掛け小屋の太夫達であった。
しかし彼らは窩人であった。
彼らは小屋内に眠るより、戸外《そと》で寝る方を愛していた。それは彼らが自然児だからで、人工の屋根で雨露をしのぎ[#「しのぎ」に傍点]、あたたかい蒲団《ふとん》にくるまるより、天工自然の空の下《もと》で、湿気と草の香に包まれながら地上で眠る方が健康にもよかった。で、暴風雨でない限り、いつも彼らは土の上で眠った。
二十年近い過去となった。その頃彼らは八ヶ嶽を出て、下界の塵寰《じんかん》へ下りて来た。それは盗まれた彼らの宝――宗介天狗のご神体に着せた、黄金細工の甲冑《かっちゅう》を、奪い返そうためであった。
漂泊《さすらい》の旅は長かった。
到る所で迫害された。
山男! こういう悪罵《あくば》を投げつけられた。
長い漂泊の間には、死ぬ者もあれば逃げるものもあった。しかし、子を産む女もあった。
で、絶えず変化した。
しかし目的は一つであった。
復讐をするということであった。
丘の近くに池があった。パタパタと水鳥の羽音がした。
「水鳥だな」
と誰かが云った。それは若々しい声であった。
「鳥はいいな。羽根がある」
もう一つの若々しい声が云った。
「飛んで行きたいよ。高い山へ!」「飛んで行きたいよ深い森へ!」「信州の山へ! 八ヶ嶽へ!」「そうだ俺らの古巣へな」
三、四人の声がこう云った。
愉快そうな笑い声が聞こえて来た。
枯草の匂いが立ち迷った。
で、またひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]静かになった。
都会《まち》の方から笛の音がした。按摩《あんま》の流す笛であった。
観音堂は闇を抜いて、星空にまで届いている。と、鰐口《わにぐち》の音がした。参詣する人があるのだろう。
「また白蛇を盗まれたそうで」
突然こういう声がした。
「では二匹盗まれたんだな」
もう一人の声がこう云った。「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「八ヶ嶽だけに住んでる蛇だ」
「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「いずれ馬鹿者が盗んだんだろう」
ここで再び笑い声がした。
それが消えると静かになった。カラカラと駒下駄の音がした。横に曲がってやがて消えた。
また微風が訪れて来た。
興行物の小屋掛けが、闇の中に立っていた。ギャーッと夜烏《よがらす》が啼き過ぎた。
「冬になるまでには帰りたいものだ」
老人の声がこう云った。
「帰れるともきっと帰れる」もう一人の老人の声が云った。
「そう長く悪運が続くわけがない」
「多四郎め! 思い知るがいい!」
「だが葉之助は可哀そうだ」突然誰かがこう云った。
「仕方がない、贖罪《しょくざい》だ!」もう一人の声がこう云った。
「母の罪を償うのだ」
「あれ[#「あれ」に傍点]の母の山吹は、部落きっての美人だった。お頭杉右衛門の娘だった。若大将岩太郎の許婚《いいなずけ》だった。……ほんとに気前のいい娘だった」
「ところが多四郎めに瞞《だま》された。そうして怨《うら》み死にに死んでしまった。可哀そうな可哀そうな女だった。……山吹とそうして多四郎との子! 可哀そうな可哀そうな葉之助!」
八
観音堂への参詣を済まし、偶然《ふと》来かかった北山は、窩人達の話を耳にして「オヤ」と思わざるを得なかった。
「葉之助葉之助と云っているが、鏡葉之助のことではあるまいかな?」
これは疑うのが当然であった。
と、木蔭に身を隠し、次の話を待っていた。
「だが葉之助は偉い奴だ」老人の声がこう云った。「俺らの敵の水狐族部落を、見事に亡ぼしてくれたんだからな」
「そうだ、あの功は没せられない」合槌を打つ声が聞こえて来た。「あの一事で母親の罪は、綺麗《きれい》に償われたというものだ」
「噂によると水狐族めも、さすらい[#「さすらい」に傍点]の旅へ上ったそうだ」
「江戸へ来ているということだ」
「どこかでぶつからない[#「ぶつからない」に傍点]ものでもない」
「ぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]が最後、戦いだ」
「そうだ戦いだ、腕が鳴るなあ」
「種族と種族との戦いだからな」
「種族の怨みというものは、未来|永劫《えいごう》解《と》けるものではない」
「だが、水狐族の部落の長《おさ》、久田の姥《うば》
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