だされ」
「それにしても前田氏には、どうしてこんな処におられるな」
「玄卿の秘密を発《あば》くため、飯焚《めした》きとなって住み込んだのでござる」
「で、秘密はわかりましたかな?」
「さよう、おおかたはわかりました」
「それでは白粉の性質も?」
「さよう、おおかたは突き止めてござる」
「さようでござるかそれはお手柄。で、いったい何んでござるな?」
「茴香《ういきょう》から製した薬品でござる」
「ううむ、なるほど、茴香のな。やはり毒薬でござろうな?」
「さよう、さよう、毒薬でござる」
「おおそれでは金一郎様には、毒殺されたのでございますな」
「ところが、そうではございません」
「そうではないとな? これは不思議?」
「茴香剤は毒薬とは云え、後に痕跡を残します。……しかるに若殿の死骸《なきがら》には、なんの痕跡もなかったそうで」
「さようさよう、痕跡がなかった。……だが、毒殺でないとすると……」
「全く不思議でございます」
「白粉の性質が解っても、それでは一向仕方がないな」
「だが前後の事情から見て、茴香剤の白粉が、金一郎様殺害に、関係のあることはたしかにございます」
「で、白粉の特性は?」
「刺戟剤でございます。まず、しばらくお待ちください。客があるようでございます。……誰か裏門を叩いております。……男奴《おとこめ》が潜《くぐ》り戸をあけました。……や、紋兵衛でございます、大鳥井紋兵衛が参りました。……これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けません。……ちょっと様子をうかがって来ます。……」
 前田一学は立ち去ったらしい。
 後はふたたび静かになった。
 葉之助はだんだん苦しくなった。
 湿気が体へ滲み通った。
 呼吸もだんだん苦しくなった。ひどく衰弱を感じて来た。
 次第に眠気を催して来た。
 一学は帰って来なかった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう思いながらウツラウツラした。
 これは恐ろしい眠りであった。ふたたび覚めない眠りであった。眠ったが最後葉之助は、生き返ることは出来ないだろう。
 はたして彼の運命は?

 ちょうど同じ夜のことであった。
 神田の諸人宿の奥まった部屋に、天野北山は坐っていた。
 薬箱が置いてあった。
 アルコールランプが置いてあった。
 試験管が置いてあった。
 そうして彼は蘭語の医書を、むずかしい顔をして読んでいた。
 そこには次のように書いてあった。
「……茴香には三種の区別あり、野茴香、大茴香、小茴香、しかして茴香の薬用部は、枝葉に非ずして果実なり。大きさおよそ二分ばかり、緑褐色長円形をなす。一種強烈なる芳香を有し、駆虫《くちゅう》、※[#「ころもへん+去」、第3水準1−91−73]痰《きょたん》、健胃剤となる。また芳香を有するがため、嬌臭《きょうしゅう》及び嬌味薬となる、あるいは種子を酒に浸し、飲用すれば疝気《せんき》に効あり。茴香精、茴香油、茴香水を採録す」
 北山はここで舌打ちをした。
「どうもこれでは仕方がない。だがしかし例の白粉が、茴香剤に相違ないと、前田一学から知らせて来たからには、それに相違はあるまいが、しかしどうも疑わしいな」
 腕を組んで考え込んだ。
 気がムシャクシャしてならなかった。
 で、宿を出て歩くことにした。
 他に行くところもなかったので、浅草の方へ足を向けた。
 観音堂へ参詣《さんけい》した。
 相当夜が深かったので、他に参詣の人もなかった。

         七

 観音堂の裏手の丘に、十数人の男女がいた。寝そべっているもの、坐っているもの、立っているもの、横になっているもの、雑然として蒐《あつ》まっていたが、暗い星月夜のことではあり、顔や姿は解らなかった。
「星が流れた」
 と誰かが云った。
「ふん、明日も天気だろう」
 すぐに誰かがこう答えた。
 で、ちょっとの間しずかであった。
 微風が木立を辷《すべ》って行った。
 赤児のむずかる[#「むずかる」に傍点]声がした。と、子守唄が聞こえて来た。その子の母が唄うのであろう。美しい細々とした声であった。
 虫が草叢《くさむら》で鳴いていた。
 微風がまたも辷って行った。
「ああいいな。どんなにいいか知れねえ。……土の匂いがにおって来る。……枯草の蒸《む》れるような匂いもする」
 老人の声がこう云った。
「八ヶ嶽! 八ヶ嶽! おお懐《なつか》しい八ヶ嶽! 八ヶ嶽を思い出す」
 一人の声がそれに応じた。やはり老人の声であったが。
「見捨ててから久しくなる。そろそろ八ヶ嶽を忘れそうだ」
「俺は夢にさえ思い出す」以前の老人が云いつづけた。「笹の平! 宗介神社! 天狗の岩! 岩屋の住居! 秋になると木の実が熟し、冬になると猪が捕れた。そうして春になると山桜が咲き、夏になると労働した。……平和
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