来た。やがてスーッと幕が引かれ、舞台が一杯に現われたが、見れば舞台の真ん中に大きな鉄の檻《おり》があり、その中に巨大な熊がいた。
「ウワーッ、荒熊だ荒熊だ!」「熊と相撲を取るんだな」「見遁《みの》がせねえぞ見遁がせねえぞ!」見物は一度に喝采した。
 と異様な風采をした一人の老人が現われた。
「あれいけねえ、お爺《とっ》つぁんだぜ」「いえ、あんな年寄りが、熊と相撲を取るのかね」「やめなよ爺つぁんあぶねえあぶねえ!」
 などとまたもや見物は、大声をあげて喚き出した。

         一三

 しかし老人はビクともせず、悠然《ゆうぜん》と正面へ突っ立ったが、猪《しし》の皮の袖無しに、葛《くず》織りの山袴、一尺ばかりの脇差しを帯び、革足袋《かわたび》を穿《は》いた有様は、粗野ではあるが威厳あり、侮《あなど》り難く思われた。
 で見物は次第に静まり、小屋の中は森然《しん》となった。
「ええ、ご見物の皆様方へ、熊相撲の始まる前に、お話ししたいことがございます」
 不意の、錆《さび》のある大きな声で、こうその老人が云い出した時には、見物はちょっとびっくりした。
「他のことではございません」老人はすぐに後をつづけた。
「我々山男の身分について申し上げたいのでございます。私の名は杉右衛門、一座の頭でございます。一口に山男とは申しますが、これを正しく申しますと、窩人《かじん》なのでございます。そうして住居は信州諏訪、八ヶ嶽山中でございます。そうして祖先は宗介《むねすけ》と申して平安朝時代の城主であり、今でも魔界の天狗《てんぐ》として、どこかにいる筈でございます。本来我々窩人なるものは、あなた方一般の下界人達と、交際《まじわ》りをしないということが掟《おきて》となっておりますので、何故というに下界人は、悪者で嘘吐きでペテン師で、不親切者で薄っぺら[#「薄っぺら」に傍点]で、馬鹿で詐欺師《さぎし》で泥棒で、下等だからでございます……」
「黙れ!」
 と突然|桟敷《さじき》から、怒鳴り付ける声が湧き起こった。
「何を吐《ぬ》かす、こん畜生! ふざけた事を吐かさねえものだ! あんまり酷《ひど》い悪口を云うと、この掛け小屋をぶち壊すぞ!」
「そうだそうだ!」と四方から、それに和する声がした。
「そんな下界が嫌いなら何故下界へ下りて来た!」
「それには訳がございます。それというのも下界人の、憎むべき恐ろしいペテンから、湧き起こった事でございまして、一口に云うと私の娘が、多四郎という下界の人間にかどわかさ[#「かどわかさ」に傍点]れたのでございます。それのみならず、その人間は私どもが尊敬する宗介天狗のご神体から黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》を奪い取り、私どもをして神の怒りに触れしめたのでございます。そのため私達は山を下り、厭《いや》な下界を流浪し歩き、こんな香具師《やし》のような真似までして、厭な下界人の機嫌を取り、生活《くら》して行かなければならないという、憐れはかない身の上に成り下ってしまったのでございます」
「態《ざま》あ見ろ! いい気味だ!」
 また群集は湧き立った。
「しかし」と杉右衛門は手で抑え、「しかし、憎むべき多四郎の、盛んであった運命も、いよいよ尽きる時が参りました。しかも彼は我が子によって命を断たれるのでございます。因果応報天罰|覿面《てきめん》、恐ろしいかな! 恐ろしいかな! で、復讐をとげると同時に、私どもは下界を棄《す》て、再び魔人の住む所、八ヶ嶽山上へ取って返し、平和と自由の生活を、送るつもりでございます。自然下界の皆様方とも、お別れしなければなりません。そのお別れも数日の間に逼《せま》っているのでございます。アラ嬉しやアラ嬉しや! ついては今日は特別をもって、我ら窩人がいかに勇猛で、そうしていかに野生的であるかを、お眼にかけることに致しましょう。我らにとって熊や猪は、仲のよい友達でございます。その仲のよい友達同士が、相《あい》搏《う》ち相《あい》戯《たわむ》れる光景は必ず馬鹿者の下界人にも、興味あることでございましょう。実に下界人の馬鹿たるや、真に度しがたいものであって……」
「引っ込め、爺《じじい》」
 と見物は、今や総立ちになろうとした。
 と突然杉右衛門は、楽屋に向かって声をかけた。
「さあ出て来い、岩太郎!」
「応!」
 と返辞《いらえ》る声がしたが、忽《たちま》ち一個の壮漢が、颯《さっ》と舞台へ躍り出た。年の頃は四十五、六、腰に毛皮を巻きつけたばかり、後は隆々たる筋肉を、惜し気もなく露出《むきだ》していたが、胸幅広く肩うずたかく、身長《せい》の高さは五尺八寸もあろうか、肌の色は桃色をなし、むしろ少年を想わせる。
「や!」
 と叫ぶと檻《おり》の戸をムズと両手でひっ[#「ひっ」に傍点]掴《つか》んだ。

   江戸
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