出した白粉を、鼻にあてて静かに嗅いだ。
「匂いがする。変な匂いだ」そこでしばらく考えたが、「なんの匂いとも解らない」
 それから立ち上がると棚へ行き、試験管を引き出した。白粉を入れて水を注ぎ、さらにその中へ入れたのは紫色をした液体であった。
 で、試験管を火にあてた。
 しかし何んの反応もない。
「これはいけない。ではこっちだな」
 こう云うと彼は他の薬品を、改めて試験管へ注ぎ込んだ。
 で、またそれ[#「それ」に傍点]を火にかけた。
 やはり何んの反応もない。
 北山の顔には何んとも云えない、疑惑の情が現われたが、どうやら彼ほどの蘭学医でも、白粉の性質が解らないらしい。

         一二

 しかし天野北山としては、解らないと云ってうっちゃる[#「うっちゃる」に傍点]ことは、どうにもこの際出来難かった。
「お家騒動の張本人を、森帯刀様と仮定すると、その連累《れんるい》が大鳥井紋兵衛、それから大槻玄卿なる者は、日本有数の蘭学医、信州の天野か江戸の大槻かと呼ばれ、俺と並称《へいしょう》されている。いずれここにある白粉《はくふん》も、その大槻が呈供して金一郎様殺しの怪事件に、役立てたものに相違あるまい。毒薬かそれとも他の物か、とまれ尋常なものではあるまい。しかるにそれが解らないとあっては、この北山面目が立たぬ。これはどうでも目付け出さなければならない」
 しかしあせれ[#「あせれ」に傍点]ばあせる[#「あせる」に傍点]ほど、白粉の見当が付かなかった。
「これはこうしてはいられない。江戸へ出よう江戸へ出よう。そうして大槻と直《じ》かに逢うか、ないしは他の手段を講じて、是が非でも白粉の性質を、一日も早く目付け出さなければならない。……一学一学ちょっと参れ!」
「はっ」と云うと前田一学は、もっけ[#「もっけ」に傍点]な顔をしてはいって来た。
「江戸行きだ、用意せい」
「江戸行き? これは、どうしたことで?」
「お前も行くのだ。急げ急げ!」
 主人の性急な性質は、よく一学には解っていた。で、理由を訊ねようともせず、旅行の用意に取りかかり、明日とも云わずその日のうちに、二人は高遠を発足した。
 一方、鏡葉之助は、北山へ飛脚を出してからも、根岸にある主君の下屋敷を念頭から放すことは出来なかった。で、非番にあたる日などは、ほとんど終日下屋敷の附近を、ブラブラ彷徨《さまよ》って警戒した。
 ちょうどその日も非番だったので、彼はブラリと家を出ると、根岸を差して歩いて行った。下屋敷まで来て見たが別に変ったこともない。で、その足で浅草へ廻った。
 いつも賑やかな浅草は、その日も素晴らしい賑《にぎ》わいで、奥山のあたりは肩摩轂撃《けんまこくげき》、歩きにくいほどであった。
 小芝居、手品、見世物、軽業《かるわざ》、――興行物の掛け小屋からは、陽気な鳴り物の音が聞こえ、喝采《かっさい》をする見物人の、拍手の音なども聞こえて来た。
「悪くないな。陽気だな」
 など、彼は呟きながら、人波を分けて歩いて行った。
 と、一つの掛け小屋が、彼の好奇心を刺戟《しげき》した。「八ヶ嶽の山男」こう看板にあったからで、八ヶ嶽という三文字が、懐しく思われてならなかった。
 で彼は木戸を払いつと[#「つと」に傍点]内へはいって行った。大して人気もないと見えて、見物の数は少かった。ちょうど折悪く幕間《まくあい》で、舞台には幕が下ろされていた。で彼は所在なさに見物人達の噂話に、漫然と耳を傾けた。
「……で、なんだ、山男と云っても、妖怪変化じゃないんだな」職人と見えて威勢のいいのが、こう仲間の一人へ云った。
「そいつで俺《おい》らも落胆《がっかり》したやつさ。あたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間じゃねえか。俺ら、山男というからにゃ、頭の髪が足まで垂れ、身長《せい》の高さが八尺もあって、鳴く声|鵺《ぬえ》に似たりという、そういう奴だと思ってたんだが、篦棒《べらぼう》な話さ、ただの人間だあ」
「そうは云ってもまんざら[#「まんざら」に傍点]じゃねえぜ」もう一人の仲間が口を出した。「間口五間の舞台の端から向こうの端へ一足飛び、あの素晴らしい身の軽さは、どうしてどうして人間|業《わざ》じゃねえ」
「あいつにゃ俺《おい》らも喫驚《びっく》りした。こう全然《まるで》猿猴《えてこう》だったからな」
「そう云えば長さ三間もある恐ろしいような蟒《うわばみ》を、細工物のように扱った、あの腕だって大したものさ」
「それに武術も出来ると見えて、棒を上手に使ったがあれだって常人にゃ出来やしねえ」
「だがな、眼があって耳があって鼻があって口があって、どうでもあたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間だあ、化物でねえから面白くねえ」
 その時チョンチョンと拍子木の音が、幕の背後《うしろ》から聞こえて
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