市中狂乱の巻
一
浅草奥山の見世物小屋から、葉之助は邸へ帰って来た。
意外の人が待っていた。
蘭医天野北山と弟子の前田一学とが客間に控えていたのであった。
「おお、これは北山先生」
葉之助は喜んで一礼した。
「前田氏にもよう見えられた」
「葉之助殿、出て来ましたよ」北山はいつに[#「いつに」に傍点]なく性急に、「さて早速申し上げる、先日はお手紙と不思議の白粉《はくふん》、よくお送りくだされた。まずもってお礼申し上げる。しかるにお送りの該《がい》白粉、とんと性質が解らなくてな」
「ははあ、さようでございますか」葉之助は案外だというように、「先生ほどの大医にも、お解りにならないとは不思議千万」
「いや私《わし》もガッカリした。そうしてひどく[#「ひどく」に傍点]悲観した。と云ってどうもうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けない。で、私は一学を連れ、倉皇《そうこう》として出て来たのだ。……そこで私は一学を玄卿《げんきょう》の邸へ住み込ませようと思う」
「ははあ、それでは先生には、大槻玄卿が怪しいと、こう覚《おぼ》し召し遊ばすので?」
「さよう、怪しく思われてな」北山はしばらく打ち案じたが、「卒直に云うとまずこうだ。……金一郎様のご他界は、内藤家におけるお家騒動の、犠牲というに他ならぬ。そうして騒動の元兇は、これは少しく畏《おそ》れ多いが殿のご舎弟|帯刀《たてわき》様だ。……いやいやこれには理由がある。しかしそれはゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と云おう。ところで二人の相棒がある。玄卿と大鳥井紋兵衛だ。紋兵衛が相棒だということは、実はお前さんの手紙によって想像をしたに過ぎないが、いやあいつの性質から云えばそんなこと[#「そんなこと」に傍点]もやり兼ねない。どだいあいつの素姓なるものが甚《はなは》だもって怪しいのだからな。どうしてあれほど[#「あれほど」に傍点]金を作ったかも、疑えば疑われる節《ふし》がある。それに第一そんな深夜に、ひとりこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠に乗って、大槻の屋敷を訪ねた帰路、帯刀様のお屋敷に寄り、その晩若君金一郎様が、ご変死なされたとあって見れば、相棒と見てよろしかろう、相棒というのが不穏当《ふおんとう》なら、関係があると云ってもよい。ところで肝腎《かんじん》の白粉だが、これはどうやら[#「どうやら」に傍点]毒薬らしい。もっとも森家と内藤家とは相当距離がへだたっているのに、その二軒の屋敷を繋いでこの白粉が一直線に、地面に撒《ま》かれてあったということから、ちと毒薬にしては変なところもある。うん、どうもこれは少し変だ。毒薬を地面へふり[#「ふり」に傍点]撒いたところで人の命は取られるものでない。が、どっちみちこの白粉が怪しいものには相違ない。そうしてお前さんの手紙によると、この白粉の筋道に添って、ちょうど美妙《びみょう》な笛のような音が聞こえて来たということであるが、それは今のところ解らない。だがしかしそれらのことも白粉の性質さえ解ったなら、自《おのずか》ら明瞭になるだろう。とまれこういう不思議な白粉を、造り出すことの出来る者は、大槻玄卿以外には、少くも江戸にはない筈だ。と云うことであって見れば、何をおいても玄卿の家へ、人を入れて様子を探らせ、薬局を調べる必要がある。ところで私と玄卿とは同業であり顔見知りだ。だから到底住み込むことは出来ない。幸い一学は玄卿とはこれまで一面の識もない。そこで一学を住み込ませ、至急様子を探らせようと思う。グズグズしてはいられない、うっかりノホホンでいようものなら、ご次男様がまたやられる」
「えっ?」
と葉之助は眼を見張った。
「ご次男と申せば金二郎様、それがやられる[#「やられる」に傍点]とおっしゃるのは?」
「やられるともやられるとも。油断をすると今夜にもやられる」北山はキッと眼を据えたが、「あいつらの目的とするところは、内藤家乗っ取りの陰謀だからな、ご長男様ご次男様、お二人がなくなられるとお世継ぎがない。そこで帯刀様が乗り込んで来られる。どうだ、これで胸に落ちたろう」
云われて葉之助は「ムー」と呻いた。
「いやそれほどの陰謀とは、私夢にも存じませなんだ。これは一刻の油断も出来ない。恐ろしいことでございますな。……」
「人の世は全く恐ろしいよ。さて今度は私《わし》の番だが、殿にはお目通りをしないつもりだ。と云うのは他でもない。私が出府をしたと聞いたら真っ先に玄卿めが用心をしよう。連れて紋兵衛も帯刀様も、手控えするに違いない。そうなったらお終いだ。陰謀の手証《てしょう》を掴むことができない」
「これはごもっともでございますな。それでは手狭でも私の家に、こっそりお在《い》で遊ばしては」
「いやいやそれも妙策でない。人の出入りもあろうから、
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