た」
「死んだのではありますまいね」葉之助は不安そうに訊ねた。
「死んだのではない気絶したのだ。ところで不思議にも気絶から醒《さ》めると、弓之進殿をじっと見て、『お父様!』と叫んだものだ。そうしてまたも気絶した。またその気絶から醒めた時には、子供は過去を忘れていた」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、そうでないと云えばそうでないとも云える。西洋医学ではこの状態を精神転換と云っている。すなわち過去をすっかり忘れ、気絶から醒めたその時から新規に生活《くらし》が始まるのだ。……それと見て取った弓之進殿は、こう私《わし》に云われたものだ。『これこそ葉之助が予言した、代りに来る者でございましょう、その証拠には私を見ると、お父様と云いました。で私はこの子を養い養子とすることに致しましょう』そこで私はこう云った。『それは結構なお考えです。しかしこのまますぐに引き取り養い育てるということは、鏡家のためにもこの子のためにも将来非常に不幸です。素姓も知れない山の子とあっては殿の思惑《おもわく》もいかがあろうか、これはいっそ知人に預け、その知人の子供として貰い受けるのがよろしかろう』とな。……その結果として弓之進殿は南条右近殿へ事情を話し、その子供を預けることにした。とこうここまで話して来たらそなたにも見当が付くであろうが、その山の子供こそ、他ならぬ葉之助殿そなたなのだ」

         七

 この北山《ほくざん》の説明は葉之助にとっては驚異であった。彼は疑いもし悲しみもした。しかし結局は北山の言葉を信ぜざるを得なかった。だがそれにしても素姓の知れない彼のような山の子を、慈愛《いつくし》み育てた養父の恩は誠に深いものである。しかるに彼はその養父を非業《ひごう》に死なせてしまったのである。済まない済まない済まないと彼は衷心《ちゅうしん》から後悔した。
「他にお詫びのしようもない。ただ、立派な人物になろう。それが何よりのご恩返しだ」
 それからの彼と云うものは、武事に文事に切磋琢磨《せっさたくま》し、事ごとに他人《ひと》の眼を驚かせた。
 この彼の大勇猛心には、乗ずべき隙もなかったか、黒法師も現われず、「永久安穏はあるまいぞよ」という奇怪な声も聞こえて来なかった。
 で、彼の生活はその後平和に流れたのであった。しかしたった一度だけ、不思議が彼を襲ったことがあった。
 それは逝《ゆ》く春のある日であったが、例の大鳥井紋兵衛から、花見の宴に招かれた。で、彼は出かけて行った。久々で娘のお露とも逢い、心のこもった待遇《もてなし》を受け、欝していた彼の心持ちも頓《とみ》に開くを覚えたりして、愉快に一日を暮らしたが、客もおおかた散ったので彼もそろそろ帰ろうとして、尚夕桜に未練を残し、フラリと一人庭へ出て亭《ちん》の方へ行って見た。
 すると誰やら若い女が亭《ちん》の中で泣いていた。
 近寄って見ればお露であった。
 亡き父の訓《いまし》めで、お露との恋は避けてはいたが、それはただ表面《おもてむき》だけで、彼の内心は昔と変らず彼女恋しさに充ち充ちていた。その彼の眼の前に、その恋人の泣き濡れた姿が、夢ではなく現実《まざまざ》と、他に妨げる者もなく、たった一人で現われたのであった。彼の心が一時に燃え立ち、前後も忘れて走り寄り、お露の肩を抱きしめたのは、当然なことと云わなければならない。
「何が悲しくてお泣きなさる」
 こう云う声は顫《ふる》えていた。
 お露は何んとも云わなかった。ただじっと抱かれていた。
 こういう場合の沈黙ほど力強いものはない。こういう場合の沈黙はそれは実に雄弁なのである。
「お露は俺を愛している。その愛のために泣いている」
 葉之助はこう思った。
 そうしてそれは本当であった。
 一時よく来た葉之助が、ピッタリ姿を見せなくなって以来、お露の恋は悲しみと変った。月日が経つに従って、その悲しみは深くなった。ある種類の女にとっては恋人の姿の見えないことは、その恋をして忘れしめる。少くも恋をして薄からしめる。しかしある種の女にとっては、反対の結果を持ち来たらせる。
 お露は不幸にも後者であった。
 葉之助の姿が見えなくなってから、本当の恋が始まったのであった。
 その恋人が久しぶりで今日姿を現わしたのである。耐え忍んでいた恋しさが――持ち堪《こら》えていた悲しさが、一時に破れたのは無理もない。しかし彼女は処女であった。その恋しさ悲しさを、恋しい男にうちつけ[#「うちつけ」に傍点]に打ち明けることは出来なかった。そこで彼女は人目を避け、亭《ちん》へ泣きに来たのであった。
 葉之助の手がしっかりとお露の肩を抱いていた。彼女にとってこの事は全く予期しない幸福であった。それこそ全世界の幸福が一度に来たように思われた。彼女の心から一刹
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