のれ、葉之助! さては汝《なんじ》が!」
「ご免!」
 と叫ぶと覆面の武士すなわち葉之助は踵を返し、脱兎《だっと》のように逃げ出した。とたんに「かっ」という気合が掛かり、傘の武士の右手から雪礫《ゆきつぶて》が繰り出された。
 手練の投げた雪礫は砲弾ほどの威力があり、それを背に受けた葉之助はもんどりうって倒れたが、そこは必死の場合である。パッと飛び起きて走り去った。あまりに意外な事実に、呆然とした弓之進はただ、棒のように立っていた。その時彼を呼ぶ者がある。
「鏡氏、お察し申す」
 弓之進は眼を上げた。傘の武士が立っていた。
「そういう貴殿は? ……おお松崎氏!」
「捕えて見れば我が子なり。……鏡氏、驚かれたであろうな?」
「葉之助めが曲者《くせもの》とは。……ああ何事も夢でござる」
 弓之進は※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》と泣いた。
「拙者断じて他言致さぬ。家に帰られ葉之助殿を、何んとかご処分なさるがよかろう」
 雪は次第に烈《はげ》しくなった。弓之進は返辞さえしない。
 返辞をしようと思っても口に出すことが出来ないのであった。
 彼は内藤家の家老であった。その立派な家柄の子が、こんな大事を惹《ひ》き起こし、こんな動乱を醸《かも》すとは、当人ばかりの罪ではない。連なる父母も同罪である。すなわち監督不行届きとして罪に坐さなければならないだろう。

 葉之助へ一封の遺書《かきおき》を残し、弓之進が屠腹《とふく》して果てたのはその夜の明方《あけがた》のことであった。

         六

 弓之進の死は変死であった。が、内藤家にとっては由緒ある功臣、絶家させることは出来ないというので、病死ということに取りつくろわせ、盛んな葬式が終えると同時に家督は葉之助に下された。
 ひとしきり弓之進の死について家中ではいろいろ取り沙汰したが、生前非常な人望家でみんなの者から敬われていたので、非難の声は聞かれなかった。そうしてついに誰一人として自殺の原因を知るものがなかった。
 わずかにそれを知っている者といえば、松崎清左衛門と葉之助だけであった。
 その葉之助は父の死後自分に宛《あ》てられた遺書を見て恥じ、泣かざるを得なかった。
「……辻斬りの本人がお前だと知っては、私《わし》は活きてはおられない。子の罪を償うため父は潔《いさぎよ》く切腹する。で、お前の罪は消えた。父の後を追うことはならぬ。決してお前は死ぬことはならぬ。さて私は死に臨んでお前の身上《みのうえ》にかかっているある秘密の片鱗を示そう。お前の実父は飯田の家中南条右近とはなっているが、しかし誠はそうではない。お前の実の両親は全然別にある筈だ。とは云えそれが何者であるかはこの私さえ知らないのである。ただし南条右近の子として鏡家へ養子に来たについては、来ただけの理由はある。また立派な経路もある。そうしてそれを知っている者は、私の親友、殿の客分|天野北山《あまのほくざん》一人だけである。就《おもむ》いて訊ねるもよいだろう。私は今死を急ぐ、それについて語ることは出来ない。下略」
 これが遺書の大意であった。
 で、ある日葉之助は北山方を訪れた。
 一通り遺書を黙読すると北山は静かに眼をとじた。
「弓之進殿は悪いことを書いた」やがて北山はこう云った。
「それはまた何故でございましょう?」葉之助は訝《いぶか》しそうに訊いた。
「何故と云ってそうではないか。しかし……」
 と云って北山はまたそこで考え込んだが、
「そこがあの仁のよいところかも知れぬ。いつまでもそなたを瞞《だま》して置くことが、あの仁には苦痛だったのであろう」
「私は誰の子でございましょう?」
「それはこれにも書いてある通り、私《わし》にも解っていないのだ。強《し》いて云うなら山の子だ」
「え、山の子とおっしゃいますと?」
「山の子といえば山の子だ、他に別に云いようもない。が、順を追って話すことにしよう。……弓之進殿にはその時代葉之助という子供があった」
「ハハアさようでございますか」
「ところが病気で早逝《そうせい》された。その臨終の時であるが、『代りが来るのだ、代りが来るのだ、次に来る者はさらに偉い』と、こう叫んだということだ」
「不思議な言葉でございますな」
「ある日私と弓之進殿と、鉢伏山へ山遊びに行った、おりから秋の真っ盛りで全山の紅葉は燃え立つばかり、実に立派な眺めであったが、突然一頭の大熊が谷を渡って駈け上って来た。するとその熊のすぐ後から一人の子供が走って来た。信濃の秋は寒いのに腰に毛皮を纏っているばかり他には何んにも着ていない。もっとも足には革足袋《かわたび》を穿《は》き手には山刀を握っていた。その子供と大熊とは素晴らしい勢いで格闘した。そうして子供は熊を仕止めた。仕止めると一緒に気絶し
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