那《いっせつな》悲しみの影が消え去った。身も心も痲痺《しび》れようとした。「死んでもよい」という感情が、人の心へ起こるのは、実にこういう瞬間である。
と、葉之助の一方の手が、やさしくお露の顎にかかった。しずかに顔を持ち上げようとする彼女の顔は手に連れて、穏《おとな》しく上へ持ち上げられ、情熱に燃えた四つの眼が互いに相手を貪《むさぼ》り見た。次第次第に葉之助の顔がお露の顔へ落ちて行った。お露は歓喜に戦慄《せんりつ》した。彼女は唇をポッと開け、そこへ当然落ちかかるべき恋人の唇を待ち構えた。
母屋《おもや》の方から人声はしたが、こっちへ人の来る気配はない。二人は文字通り二人きりであった。すぐに来るのだ恋の約束が!
とたんに嗄《かす》れた女の声が、二人の身近から聞こえて来た。「畜生道! 畜生道!」それはこういう声であった。
ハッと驚いた葉之助は、無慈悲に抱いていた手を放した。
素早く四辺を見廻したがそれらしい人の影も見えない。
「はてな?」と彼は呟いたが、やにわに袖を捲《まく》り上げた。歯形のあるべきこの腕に、二十枚の歯形は影もなく、それより恐ろしい女の顔が、眼を見開き唇を歪め嘲笑うように現われていた。
「人面疽《にんめんそ》」
と叫ぶと一緒に、葉之助は小柄を引き抜いたが、グッとその顔へ突き通した。飛び散る血汐、焼けるような痛み、それと同時に人顔は消え二十枚の歯形が現われた。
八
それから間もなく引き続いて、怪しいことが起こって来た。それはやはり二の腕にある二十枚の歯形に関することで、そうして対象は紋兵衛であった。
つまり紋兵衛と顔を合わせるごとに、二十枚の歯形が人面疽と変じ、そうしてこのように叫ぶのであった。
「お殺しよその男を!」
すると不思議にも葉之助は、その紋兵衛が憎くなりムラムラと殺気が起こるのであった。しかしさすがに刀を抜いて討ち果たすところまでは行かなかった。
「歯形といい人面疽といい、恐ろしいことばかりが付きまとう。俺は呪詛《のろ》われた人間だ」
そうして尚もこう思った。
「大鳥井一家とこの俺とは、何か関係《かかりあい》があるのかも知れない。いったいどんな関係なのだろう? よくない関係に相違ない。いわゆる精神転換前の俺というものを知ることが出来たら、その関係も解るかも知れない」
しかし彼には精神転換前の、自分を知ることが出来なかった。
「とにかく俺は大鳥井家へは絶対に足踏みをしないことにしよう。お露との恋も忘れよう」
そうして彼はこの決心を強い意志で実行した。
春が逝《ゆ》き尽くして初夏が来た。そうして真夏が来ようとした。
参覲交替《さんきんこうたい》で駿河守は江戸へ行かなければならなかった。
甲州街道五十三里を、大名行列いとも美々《びび》しく、江戸を指して発足したのは五月中旬のことであった。江戸における上屋敷は芝三田の四国町にあったが予定の日取りに少しも違《たが》わず一同首尾よく到着した。
一行の中には葉之助もいた。彼にとっては江戸は初《はつ》で、見る物聞く物珍らしく、暇を見てはお長屋を出て市中の様子を見歩いた。
夏が逝って初秋が来た。その頃紋兵衛とお露とが江戸見物にやって来た。芝は三田の寺町へ格好な家を一軒借りてこれも市中の見物に寧日《ねいじつ》ないという有様であった。しかし二人が江戸へ来たのには実に二つの理由があった。
ふたたび葉之助が遠退《とおの》いてからのお露の煩悶《はんもん》というものは、紋兵衛の眼には気の毒で見ていることは出来なかった。葉之助が殿に従って江戸へ行ってしまってからは、彼女は病《やま》いの床についた。そうしてこのままうっちゃ[#「うっちゃ」に傍点]って置いたら死ぬより他はあるまいと、こう思われるほどとなった。
「葉之助殿のお在《い》でになる、江戸の土地へ連れて行ったら、あるいは気の晴れることもあろうか。そうして時々お目にかかったなら、病いも癒《なお》るに違いない」
こう思って紋兵衛はお露を連れてこの大江戸へは来たのであった。
それにもう一つ紋兵衛は、五千石の旗本で、駿河守には実の舎弟、森家へ養子に行ったところから、森|帯刀《たてわき》と呼ばれるお方から、密々に使者《つかい》を戴《いただ》いていたので、上京しなければならないのであった。
この二人の上京は、実のところ葉之助にとっては、痛《いた》し痒《かゆ》しというところであった。彼は依然としてお露に対しては強い恋を感じていた。出逢って話すのは、もちろん非常に楽しかった。しかし同時に苦痛であった。呪詛《のろい》の言葉をどうしよう? 「畜生道! 畜生道!」「お殺しよその男を!」こう二の腕の人面疽《にんめんそ》が、嘲笑い囁《ささや》くのをどうしよう?
それは非番の日であったが、葉之助は
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