前近頃大鳥井家へ、足|繁《しげ》く参るということであるが、何んと思って出かけるな?」
 云われて葉之助は顔を赧《あか》らめたが、
「はい、いえ、別に、これと申して……」
「もちろん、行って悪いとは云わぬ。また先方としてみればいわばお前は恩人であるから、招いて饗応《もてなし》もしたかろう。呼ばれてみれば断わりもならぬ。だから行くのは悪くはないが、どうも少し行き過ぎるようだ」
「注意することに致します」
「そうだな。少し注意した方がいい。家中の評判も高いからな」
 これには葉之助も驚いた。
「家中の評判とおっしゃいますと?」
「何さ、別に心配はいらぬ。お前は今では家中の花、悪いに付け善いに付け噂をされるのは当然だよ」
「どんな噂でございましょう?」
「ちと、そいつが面白くない。……大鳥井家は財産家それに美しい娘がある。で、その二つを目的として、繁々通うとこう云うのだ」
「…………」
「アッハハハハ、莫迦な話だ。不肖なれど鏡家は当藩での家老職、まずは名門と云ってよい。たとえ財産はあるにしても大鳥井家はたかが[#「たかが」に傍点]百姓、そんなものに眼が眩《く》れようか。それに紋兵衛は評判も悪い」
「はい、さようでございます」
「強慾者だということである」
「そんな噂でございます」
「お露とかいう娘の方はそれに反して評判がよい。だが私《わし》は見たことはない。美しい娘だということだな?」
「ハイ、よい娘でございます」
 葉之助は顔を赧らめた。
「たとえどんなによい娘でも、家格の相違があるからは嫁としてその娘《こ》を貰うことは出来ぬ。ましてお前を婿《むこ》として大鳥井家へやることは出来ぬ」
「参る意《つも》りとてございません」
「そうであろうな。そうなくてはならぬ。……さてこう事が解って見れば痛くない腹を探られたくもない」
「ハイ、さようでございます」
「で、繁々行かぬがよい」
「気を付けることに致します」
「お前の武勇聡明にはまこと私も頭を下げる。これについては一言もない。ただ将来注意すべきは、女の色香これ一つだ。これを誡《いまし》むる色にありと既に先賢も申されておる」
「その辺充分将来とも気を付けるでございましょう」
 葉之助は手を支《つか》え、謹んで一礼したものである。

         三

 淡々しいように見えていてその実地獄の劫火《ごうか》のように身も心も焼き尽くすものは、初恋の人の心である。それを彼は抑えられた。
 鏡葉之助はその時以来|怏々《おうおう》として楽しまなかった。自然心が欝《うっ》せざるを得ない。
 欝した心を欝しさせたままいつまでも放抛《うっちゃ》って置く時は、おおかたの人は狂暴となる。
 葉之助の心が日一日、荒々しいものに変わって行ったのは、止むを得ないことである。彼は時に幻覚を見た。また往々「変な声」を聞いた。
「永久安穏はあるまいぞよ!」その変な声はどこからともなくこう彼に呼び掛けた。気味の悪い声であった。主のない声であった。
 そうしてそれは怨恨《うらみ》に充ちた哀切|凄愴《せいそう》たる声でもあった。
 そうして彼はその声に聞き覚えあるような気持ちがした。
 この言葉に嘘はなかった。実際彼は日一日と心に不安を覚えるようになった。心の片隅に小鬼でもいて、それが鋭い爪の先で彼の心を引っ掻くかのような、いても立ってもいられないような変な焦燥《しょうそう》を覚えるのであった。事実彼の心からいつか安穏は取り去られていた。
「どうしたのだろう? 不思議な事だ」
 彼にとっても、この事実は不思議と云わざるを得なかった。
 で、意志の力をもって、得体の知れないこの不安を圧伏しようと心掛けた。しかしそれは無駄であった。
「何物か俺を呪詛《のろ》っているな」
 ついに彼はこの点に思い到らざるを得なかった。
「たしかに、あの[#「あの」に傍点]声には聞き覚えがある。……おおそうだ、久田の声だ!」
 正にそれに相違なかった。水狐族の長《おさ》の久田の姥《うば》の怨念の声に相違なかった。
 久田の姥の怨念は、ただこれだけでは済まなかった。
 間もなく恐ろしい事件が起こった。そうしてそれが葉之助の身を破滅の淵へぶち[#「ぶち」に傍点]込んだ。

 ある夜、書見に耽《ふけ》っていた。
 と例の声が聞こえて来た。
 にわかに心が掻き乱れ坐っていることが出来なくなった。
 で、戸を開けて外へ出た。秋の終り冬の初めの、それは名月の夜であったが、彼はフラフラと歩いて行った。
 主水町《かこまち》を過ぎ片羽通りを通り、大津町まで来た時であったが、一個黒衣の大入道が彼の前を歩いて行った。
 どうしたものかその入道を見ると、葉之助はゾッと悪寒《おかん》を感じた。
「いよいよ現われたな黒法師めが! こいつ悪玉に相違ない!」こう思ったからであった
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