。
ムラムラと殺気が萌《きざ》して来た。で彼は足音を盗み、そっと入道へ近寄った。
声も掛けず抜き打ちに背後からザックリ斬り付けたのはその次の瞬間のことであった。と、ワッという悲鳴が起こり、静かな夜気を顫わせたが、見れば地上に一人の老人が、左の肩から右の胴まで物の見事に割り付けられ、朱《あけ》に染まって斃《たお》れていた。
「や、これは黒法師ではない。これは城下の町人だ」
葉之助はハッと仰天《ぎょうてん》したが、今となってはどうすることも出来ない。
しかるにここに奇怪な事が彼の心中に湧き起こった。……老人を斬った瞬間に、彼の心中にトグロを巻いていた不安と焦燥が消えたことである。……彼の頭は玲瓏《れいろう》と澄み、形容に絶した快感がそれと同時に油然と湧いた。
飼い慣らされた猛獣が、血の味を知ったら大変である。原始的性格の葉之助が殺人《ひとごろし》の味を知ったことは、それより一層危険な事である。
のみならずここにもう一つ奇怪な現象が行われた。
それは彼が殺人をしたその翌朝のことであったが、床から起き出た彼を見ると、母親のお石が叫ぶように云った。
「お前、いつもと顔が異《ちが》うね」
「本当ですか? どうしたのでしょう」
で、葉之助は鏡を見た。なるほど、いささか異っている。白い顔色が益※[#二の字点、1−2−22]白く、黒い瞳がいよいよ黒く、赤い唇が一層赤く、いつもの彼よりより[#「より」に傍点]一層美しくもあれば気高くもある、一個|窈窕《ようちょう》たる美少年が、鏡の奥に写っていた。
思わず葉之助は唸ったものである。それから呟いたものである。
「不思議だ、不思議だ、何んということだ」
……が、決して不思議ではない。何んのこれが不思議なものか。
美しい犬へ肉をくれると、より一層美しくなる。死骸から咲き出た草花は、他の草花より美しい。
人を殺して血を浴びた彼が、美しくなったのは当然である。
四
二度目に人を斬ったのは、陽の当たっている白昼《まひる》であった。
その日彼は山手の方へ的《あて》もなくブラブラ歩いて行った。茂みで鳥が啼いていた。野茨《のいばら》の赤い実が珠をつづり草の間では虫が鳴《すだ》いていた。ひどく気持ちのよい日和《ひより》であった。
と行手の峠道へポツリ人影が現われたが、長い芒《すすき》の穂をわけて次第にこっちへ近寄って来た。見るとそれは黒法師であった。それと知った葉之助は思案せざるを得なかった。
「幻覚かな? 本物かな?」
その間もズンズン黒法師は彼の方へ近寄って来た。やがてまさに擦れ違おうとした。
その時例の声が聞こえて来た。
「永久安穏はあるまいぞよ」
ゾッと葉之助は悪寒を感じ、それと同時に心の中へ不安の念がムラムラと湧いた。
で、刀を引き抜いた。そうして袈裟掛けに斬り伏せた。
陽がカンカン当たっていた。その秋の陽に晒《さ》らされているのは若い女の死骸であった。
「うむ、やっぱり幻覚であったか」
憮然《ぶぜん》として葉之助は呟いたもののしかし後悔はしなかった。気が晴々しくなったからである。
三人目には飛脚《ひきゃく》を斬り四人目には老婆を斬り五人目には武士を斬った。しかも家中の武士であった。
高遠城下は沸き立った。恐怖時代が出現し、人々はすっかり胆を冷やした。
「いったい何者の所業《しわざ》であろう?」
誰も知ることが出来なかった。
家中の武士が隊を組み、夜な夜な城下を見廻ろうという。そういう相談が一決したのは、それから一月の後であった。
で、その夜も夜警隊は粛々《しゅくしゅく》と城下を見廻っていた。
円道寺の辻まで来た時であったが、隊士の一人が「あっ」と叫んだ。素破《すわ》とばかりに振り返って見ると、白井誠三郎が袈裟に斬られ朱に染まって斃《たお》れていた。そうして彼のすぐ背後に鏡葉之助が腕を拱《こまぬ》き黙然として立っていた。
誰がどこから現われ出て、どうして誠三郎を斬ったものか、皆暮《かいく》れ知ることが出来なかった。
こうしてせっかくの夜警隊も解散せざるを得なかった。
心配したのは駿河守である。例によって葉之助を召した。
「さて葉之助、また依頼《たのみ》だ。そちも承知の辻斬り騒ぎ、とんと曲者《くせもの》の目星がつかぬ。ついてはその方市中を見廻り、是非とも曲者を捕えるよう」
「は」と云ったが葉之助は、苦笑せざるを得なかった。
「この事件ばかりは私の手には、ちと合《あ》い兼ねるかと存ぜられます」
「それは何故かな? 何故手に合わぬ」
「別に理由《わけ》とてはございませぬが、ちと相手が強過ぎますようで……」
「いやいやお前なら大丈夫だ」
「しかし、なにとぞ、他のお方へ……」
「ならぬならぬ、そちに限る」
そこで止むを得ず葉之助は、
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