ょう?」
「うん、そうしてご馳走《ちそう》するか」
「それがよろしいかと存じます」
「なるほどこれはよいかもしれない」
 大鳥井紋兵衛と娘お露とは、ここでようやく相談を極《き》めた。
 翌日紋兵衛は袴羽織《はかまはおり》で、自身鏡家へ出掛けて行った。
 帰国以来葉之助は、いろいろの人から招待されて、もう馳走には飽き飽きしていた。で、紋兵衛に招かれても心中大して嬉しくもなかった。と云って断われば角が立つ。そこでともかくも応ずることにした。もっとも娘のお露に対しては淡々《あわあわ》しい恋を感じていた。
「あの娘は美しい。そうして大変|初々《ういうい》しい。父親とは似も似つかぬ。会って話したら楽しいだろう」こういう気持ちも働いていた。
 中一日日を置いて彼は大鳥井家へ出掛けて行った。
 心をこめた種々の馳走はやはり彼には嬉しかった。誠心《まごころ》のこもった主人の態度や愛嬌《あいきょう》溢れる娘の歓待《もてなし》は、彼の心を楽しいものにした。殊にお露が機会《おり》あるごとに彼へ示す恋の眼使いは、彼の心を陶然《とうぜん》とさせた。さすがは豪家のことであって書画や骨董《こっとう》や刀剣類には、素晴らしいような逸品《いっぴん》があったが、惜し気なく取り出して見せてくれた。これも彼には嬉しかった。
 お露とたった二人だけで、数奇を凝らした茶室の中で、彼女の手前で茶をよばれたのは、分けても彼には好もしかった。
 石州流の作法によって造り上げられた庭園を、お露の案内で彷徨《さまよ》った時、夕月が梢《こずえ》に差し上った。
「綺麗なお月様……」
「おお名月……」
 二人は亭《ちん》に腰掛けた。
 葉籠りをした小鳥の群が、にわかに騒がしく啼き出した。あまりに明るい月光に、朝が来たと思ったのであろう。
 いつか二人は寄り添っていた。互いの体の温《ぬくも》りが、互いの体へ通って行く。二人の心は恍惚となった。
 ふとお露は溜息をした。
 と、葉之助も溜息をした。
 ピチッと泉水で魚が跳ねた。
 後はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と静かである。
 互いに何か話そうとして、なんにも話すことが出来なかった。話そうと思えば思うほど口が固く結ばれた。
 で二人は黙っていた。二人とも若くて美しい。二人とも恋には経験がない。これが二人には初恋であった。
 二人は漸次《だんだん》恥ずかしくなった。で顔を反向《そむ》け合った。しかし体はその反対に相手の方へ寄って行った。胸が恐ろしく波立って来た。そうして手先が幽《かす》かに顫え、燃えるように身内が熱くなった。

         二

 やっぱり二人は黙っていた。
 もし迂濶《うかつ》に物でも云って、そのため楽しいこの瞬間が永遠に飛び去ってしまったなら、どんなに飽気《あっけ》ないことだろうと、こう思ってでもいるかのように、二人はいつまでも黙っていた。
 若さと美貌と勇気と名声、これを一身に兼備している葉之助のような人物こそは、お露のような乙女にとっては、無二の恋の対象であった。ましてその人は家のためまた大事な父のためには疎《おろそ》かならぬ恩人である。――で、一眼見たその時から、お露は葉之助に捉《とら》えられた。時が経つにしたがってその恋心は募って行った。葉之助を家へ招くように父に勧めたというのも、この恋心のさせた業であった。
 今こそ心中を打ち明けるにはまたとない絶好の機会である。場所は庭の中の亭《ちん》である。すぐ側に恋人が坐っている。美しい夕月の宵《よい》である。二人の他には誰もいない。……しかし、彼女は処女であった。そうして性質は穏《おとな》しかった。無邪気に清潔《きよらか》に育てられて来た。どうして直接《うちつけ》に思う事を思う男へ打ち明けられよう。
 葉之助にとってはこれまでは、このお露という美しい娘は淡い恋の対象に過ぎなかった。ただ時々思い出し、思い出してはすぐ忘れた。しかるにこの日招かれて来て、そうして彼女に会って見て、そうして彼女から卒直《いっぽんぎ》の恋の素振《そぶ》りを見せられて、始めて彼は身を焼くような恋の思いに捉えられた。彼は彼女に唆《そそ》られたのである。恋の窓を開かれたのである。
 彼のような性質の者が、一旦恋心を唆られると坂を転がる石のように止どまるところを知らないものである。……欝勃《うつぼつ》たる覇気、一味の野性、休火山のような抑えられた情火、これが彼の本態であった。しかし彼は童貞であった。どうして直接《うちつけ》に思うことを思う女へ打ち明けられよう。
 で、二人は黙っていた。しかし二人は二人とも、相手の心は解っていた。不満ながらも満足をして二人は黙っているのであった。

「これ葉之助、ちょっと参れ」
 ある日父の弓之進が、こう葉之助を部屋へ呼んだ。
「は、ご用でございますか?」
「お
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