、死に瀕した窶《やつ》れた顔、額の色は藍《あい》のように蒼《あお》く唇の色は土気を含み、昏々として眠っている。
老婆は口をカッと開けたがホーッ、ホーッ、ホーッ、ホーッと、頼正公の顔の辺へ息をしきりに吹きかける。そのつど頼正は身悶《みもだ》えする。
じっ[#「じっ」に傍点]と見定めた葉之助は、几帳をパッと蹴退《けの》けるや、ヒラリと内へ躍り込んだ。
ピタリと槍を構えたものである。
さすがに老婆も驚いたが、抱いていた頼正を投げ出すと、スックとばかり立ち上がつた。身の長《たけ》天井へ届くと見えたが、これはもちろん錯覚である。
二人は眼と眼を見合わせた。
「小僧推参!」
と忍び音《ね》に、久田の姥《うば》は詈ったが、右手に振り袖をクルクルと巻くと高く頭上へ差し上げた。すなわち彼女の慣用手段、眠りを誘う催眠秘術、キリキリキリキリと廻し出す。
あわやまたもや葉之助は、恐ろしい係蹄《わな》へ落ちようとする。
と、奇蹟が現われた。
平安朝型の長槍が、すなわち窩人の守護本尊宗介天狗の木像から借り受けて来た長槍が、葉之助の意志に関係《かかわり》なく自ずとグルグル廻り出した事で、頭上に翳《かざ》した妖婆の手が左へ左へと廻るに反し、右へ右へ右へと廻る。すなわち彼女の催眠秘術を突き崩そうとするのである。
葉之助は驚いたが、それにも増して驚いたのは実に久田の姥《うば》であった。
彼女はじっ[#「じっ」に傍点]と槍を見た。見る見る顔に苦悶が萌《きざ》し、眼に恐怖が現われたが、突然口から呻き声が洩れた。
「宗介の槍! 宗介の槍! ……おおその槍を持っているからは、汝《おのれ》は窩人の一味だな!」
しかし葉之助は返辞さえしない。ジリジリジリジリと突き進む。それに押されて久田の姥は一足一足後へ退がる。
やはり二人は睨み合っている。
頭上に高く翳《か》ざしていた久田の姥の右の手が、この時にわかに脇へ垂れた。一髪の間に突き出した槍! したたか鳩尾《みぞおち》を貫いた。
しかし久田は倒れなかった。
両手を掛けて槍の柄をムズとばかり握ったものである。
「……呪詛《のろ》われておれ窩人の一味! お前には安穏《あんのん》はあるまいぞよ! お前は永久死ぬことは出来ぬ! お前は永久年を取らぬ! 水狐族の呪詛《のろい》妾《わし》の呪詛! 味わえよ味わえよ味わえよ!」
こう妖婆は叫んだが、それと一緒に息絶えた。
初めてホッとした葉之助は、昏倒している頼正を片手を廻して背中に負い、片手で血まみれの槍を突き、階段を下りて庭へ出た。
部落は幸いにも寝静まっている。これほどの騒動も知らないと見える。
で、葉之助は静々と水狐族の部落を引き上げて行く。
部落を抜け田圃へ出《い》で湖水に添って引き上げて行く。
妖婆の呪詛《のろい》の言葉など、彼にとっては何んでもなかった。若殿頼正を救ったこと、禍《わざわ》いの根を断ったこと、堕ちた名誉を恢復《かいふく》したこと、これらが彼には嬉しかった。
こうして彼はその夜の暁方《あけがた》、高島城の大手の門へ、血まみれの姿を現わした。
怨念復讐の巻
一
鏡葉之助の槍先に久田の姥が退治られて以来、諏訪家の若殿頼正は、メキメキと元気を恢復した。
使命を果たした葉之助は、非常な面目を施した。彼の武勇は諏訪一円、武士も町人も賞讃した。彼に賜わった諏訪家の進物は、馬五頭でも運び切れなかった。
いよいよ諏訪家に暇《いとま》を告げ、彼は高遠へ帰ることになった。諏訪家では一流の人物をして、彼を高遠まで送らせた。
さて高遠へ着いて見ると、彼の功名は注進によって既《すで》に一般に知れ渡っていた。だから大変な歓迎であった。
いかに阿呆《あほう》を装っても、もう誰一人葉之助を愚《おろ》か者とは思わなかった。彼は高遠一藩の者から、偶像とされ亀鑑《きかん》とされた。
「葉之助様がお帰りなされたそうで」
「おお、お帰りなされたそうだで」
「大変にご功名をなされましたそうで」
「そういうお噂だ。結構なことだ」
「お偉いお方でございますのね」
「まず高遠第一であろうな」
「あの、それに私達には、ご恩人でございますわ」
「そうともそうとも、恩人だとも」
「あのお方がおいでくだされて以来、妖怪《あやかし》が出なくなりましたのね」
「おおそうだ、有難いことにな」
「お礼申さねばなりませんわ」
「私もとうからそう思っているのさ」
「どうしたらご恩が返されましょう」
「さあ、そいつが考えものだて」
「まさかお金も差し上げられず……」
「相手はご家老のご子息様だ、そんな事は断じて出来ない」
「では、品物も差し上げられませんのね」
「とてもお納めくださるまいよ」
「ではお父様いっそのこと、お招待《まね》きしたら、いかがでし
前へ
次へ
全92ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング