《たど》りついた所は、いわゆる昔の笹の平、すなわち窩人《かじん》の部落であって、諸所に彼らの住家があったが、人影は一つも見られなかった。
見られないのが当然である。十数年前に窩人達は漂泊《さすらい》の旅へ上ったのだから。
しかしもちろん葉之助にはそんな消息は解っていない。で、窩人の廃墟ばかりあって、窩人その者のいないということが、少なからず彼を失望させた。
「だがさっきの呼び声は決して自分の空耳《あだみみ》ではない。確かに人間の呼び声であった。その人間はどこにいるのであろう?」
そこで彼は何より先にその人間を探すことにした。
一軒一軒根気よくかつては窩人の住家であり、今は狐狸の巣となっている、窟《いわや》作りの小屋小屋を丁寧に彼は探したが、人間の姿は見られなかった。
「さては空耳《あだみみ》であったのかしら?」
ようやく疑わしくなった時、またもや同じ呼び声がどこからともなく聞こえて来た。
「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい!」と。
声は山の方からやって来る。
で葉之助は元気付き声のする方へ走って行った。荒野を上の方へ越した時、丘の上に森があり、森の中に神殿があり、内陣の奥に槍を持ったさも[#「さも」に傍点]厳《いか》めしい木像が突っ立っているのを見付けたが、これぞ天狗の宮であり、厳めしい武人の木像こそ宗介天狗のご神体なのであった。しかしこれとて葉之助には何が何んであるか解ってはいない。
とは云え何んとなくその木像が尊く懐かしく思われたので、葉之助は手を合わせて恭《うやうや》しく拝した。と、その時人声がした。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
ギョッと驚いた葉之助が思わずその眼を見張った時、木像の蔭からスルスルと、白衣長髪の人影が、彼の眼の前へ現われた。まことに神々しい姿である。慈愛に溢れた容貌である。人と云うより神に近い。
その神人はまた云った。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
意外の人物の出現に、胆を潰した葉之助はしばらく無言で佇《たたず》んでいたが、この時にわかに一礼し、
「これはどなたか存じませぬが、お人違いではございませぬかな。私事は高遠の家中、鏡葉之助と申す者、猪太郎ではございませぬ」
「さようさよう只今の名は葉之助殿でござったな。しかしやっぱり猪太郎じゃ。さよう少くも幼名はな」神々しい姿のその人はこう云うと莞爾《にこやか》に微笑んだが、「何んとそうではござらぬかな」
「いえいえそれも違います。私の幼名は右三郎、このように申しましてございます」
「さようさようそんな時代もあった。しかしそれはわずかな間じゃ。しかもそれは仮りの名じゃ。方便に付けた名であったがしかしその事はやがて自然に解るであろう。そうしてそれが解った時から、お前は悲惨《みじめ》な人間となろう。恐ろしい恐ろしい『業《ごう》』の姿がまざまざお前に見えて来よう。世にも不幸な人間とは、他《ほか》でもないお前の事じゃ。お前は産みの母親の呪詛《のろい》の犠牲《いけにえ》になっているのじゃ。そうしてお前は実の父親をどうしても殺さなければならないのじゃ。しかしそれは不可能のことじゃ。子として実の父親を殺す! これは絶対に出来ないことじゃ。出来ないからこそ苦しむのじゃ。そこにお前の『業』がある……お前は不幸な人間じゃ。母の怨みを晴らそうとすればどうでも父親を殺さねばならぬ。子としての道を歩もうとすれば、母親の臨終《いまわ》の妄執《もうしゅう》を未来|永劫《えいごう》解《と》くことが出来ず、浮かばれぬ母親の亡魂をいつまでも地獄へ落として置かねばならぬ」
すると葉之助は笑い出したが、
「これは何をおっしゃることやらとんと[#「とんと」に傍点]私には解りませぬ。私の実の父も母も飯田の城下に健《すこや》かに現在《ただいま》も生活《くら》しておりますものを、臨終《いまわ》の妄執だの亡魂だのと、埒《らち》もないことを仰《おお》せられる。お戯《たわむ》れも事によれ、程度《ほど》を過ごせば無礼ともなる。もはやお黙りくださるよう。私、聞く耳持ちませぬ!」
果ては少しく怒りさえした。
二六
すると神々しいその人は、さも気の毒と云うように、慈愛の眼差しで葉之助を見たが、
「お前の父母は何んと云うな?」
「父は南条右近と申し、信州飯田堀石見守の剣道指南役にござります。母は同藩の重役にて前川頼母の第三女お品と申すものにございます」
「さようさようそうであったな。それは私《わし》も知っておる。しかしそれは仮り親じゃ」
「ナニ、仮り親でございますと? 奇怪な仰せ、その仔細は?」葉之助は気色ばむ。
「いやいやそれは明かされぬ。しかしそのうち自然自然|明瞭《あきらか》になる時節があろう。その時節を待たねばならぬ」
「先刻より様々の仰せ、不思議なことばか
前へ
次へ
全92ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング