が、それが正しく事実ならさような人間を使者によこされた内藤家こそ不届き千万」こう云う者さえ出て来るようになった。
「いやいやそれは中傷で、葉之助殿は非常な武芸者、高遠城下で妖怪《もののけ》を退治し、武功を現わしたということでござる」稀《まれ》にはこう云って葉之助を、弁護しようとする者もあった。
「何さ、高遠の妖怪は諏訪の妖怪と事|異《かわ》り意気地《いくじ》がないのでござろうよ」などと皮肉を云う者もある。一方若殿頼正は、誰がどのように警護しても、時刻が来れば忽然《こつぜん》と抜け出し、城から姿を隠すのであった。そうして日夜衰弱し、死は時間の問題となった。
 しかも、葉之助は寂然《せきぜん》と、別館に深く籠もっていて、他出しようともしないのである。
 ある日葉之助はいつも通り別館の座敷に端座してじっと[#「じっと」に傍点]思案に耽《ふけ》っていた。彼の前には、「水狐族縁起」が、開いたままで置いてある。彼は今日までに幾度となくこの写本を読み返した。そうしてこの中から何らかの光明何らかの活路を発見《みつけだ》そうとした。しかし不幸にも今日までは見出すことが出来なかった。
 彼はカッと眼を開けた。それから改めて読み出した。と、にわかに彼の眼は一行の文字に喰い入った。
「八ヶ嶽山上窩人に対しては、深讐《しんしゅう》綿々|尽《つ》く期《とき》無《な》けん、これ水狐族の遺訓たり」
 こうそこには記されてある。
「うん、これだ!」
 と葉之助はポンとばかりに膝を叩いた。
「なんという俺は迂濶者《うかつもの》だ。これほど立派な活路があるのに、それに今まで気が付かなかったとは……八ヶ嶽山上の窩人に対し水狐族が深讐とみなすからには、窩人の方でも水狐族を深讐と見ているに相違ない。したがって窩人の連中は、水狐族に対して敵対の手段を考えているに相違ない。ではその窩人と邂逅《いきあ》って水狐族に対する敵対の手段を尋ねたとしたらどうだろう! 恐らく彼らは喜んで教えてくれるに違いない。八ヶ嶽に行って窩人と逢おう!」
 日没《ひぐれ》を待って葉之助は窃《こっそ》り城を抜け出した。
 途中で充分足|拵《ごしら》えをし、まず茅野宿《ちのじゅく》まで歩いて行き、そこから山路へ差しかかった。薬沢《くすりさわ》、神之原、柳沢。この柳沢で夜を明かし翌朝は未明に出発した。八手まで来て北に曲がったが、もうこの辺は高原で、これより奥には人家はない。阿弥陀ヶ嶽の山骨を上へ上へと登って行く。途中一夜野宿をした。
 三日目の昼頃|辿《たど》り着いたのは「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」の谿谷《たにあい》で、見ると小屋が建っていた。幾年風雨に晒《さ》らされたものか屋根も板囲いも大半崩れ見る影もなく荒れていたが、この小屋こそは十数年前に窩人の娘山吹と城下の商人《あきゅうど》多四郎とがしばらく住んでいた小屋なのである。二人の間に儲けられた猪太郎と呼ぶ自然児もかつてはここに住んでいた筈だ。それらの人達はどこへ行ったろう? 山吹は既に死んだ筈である。しかし多四郎や猪太郎は今尚|活《い》きている筈だ。
 鏡葉之助は小屋の前にやや暫時《しばらく》立っていた。不思議にも彼の心の中へ、何んとも云われない懐かしの情が、油然《ゆうぜん》として湧いて来た。遠い昔に度々聞きそうして中頃忘れ去られた笛の音色が卒然と再び耳の底へ響いて来たような、得《え》も云われない懐かしの情! 思慕の情が湧いて来た。しかしそれは何故だろう? そうだそれは何故だろう? 葉之助にとって「鼓ヶ洞」は何んの関係もないではないか、今度が最初《はじめて》の訪問ではないか。鏡葉之助は鏡葉之助だ。他の何者でもないではないか。
 それとも葉之助と「鼓ヶ洞」とは何か関係があるのであろうか?
「これは不思議だ」と葉之助は声に出して呟いた。「遠い遠い遠い昔に、私《わし》は何んだかこの小屋に住んでいたような気持ちがする。……しかしそんなことのありようはない!」忽然、この時絶壁の上から、人の呼び声が聞こえて来た。
「おいでなさい! おいでなさい! おいでなさい!」慈愛に充ちた声である。

         二五

「おいでなさい、おいでなさい、おいでなさい!」
 慈愛に溢れた呼び声がまた山の上から聞こえて来た。
 鏡葉之助はそれを聞くと何んとも云われない懐かしの情が油然《ゆうぜん》と心へ湧き起こった。
「誰かが俺を呼んでいる。行って見よう、行って見よう」
 忙しく四辺《あたり》を見廻した。正面に当たって崖がある。崖には道が付いている。その道は山上へ通っている。
 で葉之助はその道から山の上へ行くことにした。苔《こけ》に蔽《おお》われ木の葉に埋もれ、歩き悪《にく》い道ではあったけれど、葉之助にとっては苦にならなかった。で、ズンズン登って行く。
 こうしてようやく辿
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