十日ほど前、乳母を連れて清水寺に参詣に参った帰路、人形使いに身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》した恐ろしい恐ろしい人買《ひとか》いに誘拐されたのでございます」
「おおさようか、益※[#二の字点、1−2−22]気の毒、さぞ両親《ふたおや》が案じていよう、計らず逢ったも何かの縁、人を付けて帰して遣わす」
「はい有難うはございますが、母と妾《わたくし》とは継《まま》しい仲、たとえ実家へ帰りましても辛《つら》いことばかりでございます」乙女はまたも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた顔を袖へ埋めて泣くのであった。
「かえすがえすも不幸な身の上、はてこれは困ったことだ」頼正はその眼を顰《ひそ》めたが、「ところで誘拐《かどわかし》の人買いは今どこに何をしておるぞ?」
「どこにどうしておりますやら、和田峠とやら申す山で、ようやく人買いの眼を眩《くら》ませ、夢中でここまで逃げては来ましたが、知人《しりびと》はなし蓄《たくわ》えもなし、うろうろ徘徊《さまよ》っておりますうちには乞食非人に堕《お》ちようとも知れず、また恐ろしい人買いなどに捕えられないものでもなし、それより綺麗《きれい》なこの湖水へいっそ身を投げ死んだなら、黄泉《あのよ》の実の母様にお目にかかることも出来ようかと……」
「それでここで泣いていたのか?」
「はい」と云って身を顫わせる。
月は益※[#二の字点、1−2−22]|冴《さ》え返って乙女の全身は透通《すきとお》るかとばかり、蒼白い光に煙《けぶ》っている。その肩の辺に縺《もつ》れかかった崩れた髪の乱らがましさ、顔を隠した袖を抜けてクッキリと白い富士額《ふじびたい》、腰細く丈《たけ》高く、艶《えん》と凄《せい》とを備えた風情《ふぜい》には、人を悩ますものがある。二十一歳の今日まで無数の美女に侍《かしず》かれながら、人を恋したことのない武道好みの頼正も、この時はじめて胸苦しい血の湧く思いをしたのである。
「そうしてそちの名は何んと云うぞ?」
「はい、水藻《みずも》と申します」
「水藻、水藻、しおらしい名だ。これからそちはどうする気だな?」
「はい、どうしたらよろしいやら、いっそやっぱり湖水の底へ……どうぞ死なしてくださりませ! どうぞ死なしてくださりませ!」物狂わしく身をもがく。
「この頼正がある限りは決してそちは死なしはせぬ。何故そのように死にたいぞ?」
「憐れな身の上でございますゆえ……」
「この頼正がある限りはお前は不幸に沈ませては置かぬ。それともそちは私《わし》が嫌いか?」
云い云い肩へ手を置いた。水藻はそれを避けようともしない。堅く身を縮めるばかりである。
「返辞のないは厭《いや》と見える」
水藻《みずも》は無言で首を振る。
「それともそちは恥ずかしいか?」
乙女は黙って頷いた。
「まだそちは死にたいか?」
「死ぬのが厭になりました」
「楽しく二人で生きようではないか」
水藻は袖から顔を上げたが涙に濡れた星のような眼が、この時かすかに微笑《ほほえ》んだ。
「おお笑ったな。そうなくてはならぬ。私《わし》も寂しい身の上だ。不足のない身分ながら、いつも寂しく日を送って来た。だがこれからは慰められよう。私は事業を恋と換えた。恋の美酒《うまざけ》に酔い痴《し》れよう。ほんとに男と云うものは、身も魂も何物かに打ち込まなければ生き甲斐《がい》がない。私はこれまで荒々しい武道と事業とで生きて来た。それがいよいよ行き詰まったところで計らずも女の恋を得た。これで楽しく生きることが出来る。お前は私の恩人だ。そうして私の恋人だ。私はお前を放しはせぬ」彼の顔からは憂欝《ゆううつ》が消え、新しく希望が現われたのである。
二〇
こういう事があってから十日余りの日が経った。その時諏訪の家中一般に一つの噂が拡まった。
――若殿が毎夜城を出てどこかへ行かれるというのである。――
――それから間もなく若殿に関してもう一つの噂が拡まった。若殿にはこの頃隠し女が出来てそこへ通われるというのである。――
で、人達は取り沙汰した。
「武道好みの若殿に女が出来たとは面白いな」
「さて、どんな女であろうぞ?」「いったい何者の娘であろうな?」「家中の者の娘であろうか?」「それとも他国の遊女売女かな?」「湖水の石棺を引き上げようというあの乱暴な計画《もくろみ》がどうやらお蔭で止めになったらしい。これだけでも有難い」「女大明神と崇《あが》めようぞ」「それにしてもその女はどこに囲われているのであろう?」「どうぞ一眼見たいものだ」「いずれ美人に相違あるまい」「石部金吉の若殿をころりと蕩《たら》した女だからの、それは美人に相違ないとも」「いやいや案外そうではあるまい。奇抜好みの若殿だ、
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