人《にん》三|化《ばけ》七の海千物《うみせんもの》を可愛がっておられるに違いない」「ははあこれももっともだな」「轆轤《ろくろ》ッ首ではあるまいかな」「夜な夜な行灯《あんどん》の油を嘗《な》めます」「一つ目の禿《かむろ》ではあるまいかな」「信州名物の雪女とはどうだ」「ところが今は冬ではない」「ううん、それじゃ夏女か」「そんな化物聞いたこともない」「河童《かっぱ》の化けたんじゃあるまいかな」「永明寺山《えいめいじやま》の狸かも知れぬ」「唐沢山《からさわやま》の狐であろう」「いや狢《むじな》だ」「いや河獺《かわうそ》よ」「いやいや※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》に相違ない」――噂は噂を産むのであった。
そのうち、家中の人達の眼に、当の若殿頼正が、日に日に凄《すご》いように衰弱するのが、不思議な事実として映るようになった。
――そこでまた噂が拡まった。
「これは魅入られたに違いない。いよいよ相手は怪性《けしょう》の物だ」「狢かな河童かな。きっと岡谷の河童であろう」「いや違う。そうではあるまい、これは水狐族に相違ない」
「あッ、なるほど!」
と人々は、この意見に胆《きも》を潰《つぶ》した。
「いかさまこれは水狐族であろう。水狐族なら祟《たた》る筈だ」
「そうだこれは祟る筈だ。彼奴《きゃつ》らが永い間守り本尊として守護をして来た湖水の石棺を引き上げようとしたのだからな」「彼奴らの仲間には眼の覚めるような美しい女がいるという事だ」「しかもあいつらは魔法使いだ」「その上恐ろしく執念深い」「偉い物に魅入られたぞ」「若殿のお命もあぶなかろう」「お助けせねば義理が立たぬ」「臣下として不忠でもあろう」「しかしいったいどうしたらいいのだ?」「何より先に行《や》ることは女の在家《ありか》を突き止めることだ」
「しかしどうして突き止めたものか?」
「誰が一番適任かな?」
「拙者突き止めてお眼にかける!」
こう豪然と云った者がある。佐分利流の槍術指南|右田運八《みぎたうんぱち》無念斎であった。
「お、右田殿か、これは適任」
「さよう、これは適任でござる」
人々は同音に煽《あお》り立てた。「是非ともご苦労願いたいもので」
「よろしゅうござる、引き受け申した。たかが相手は水狐族の娘、拙者必ず槍先をもって悪魔退散致させましょう」
――で、運八はその日の夜、手慣れた槍を小脇に抱え、城の奥殿若殿のお部屋の、庭園の中へ忍び込み、様子いかにと窺った。
深夜の風が植え込みに当たり、ザワザワザワザワと音を立て、曇った空には星影もなく、城内の人々寝静まったと見え森閑として物凄い。その時雨戸が音もなく開き人影がひらり[#「ひらり」に傍点]と下り立った。他ならぬ若殿頼正である。
眼に見えぬ糸に曳かれるように、傍目《わきめ》もふらず頼正は、スーッ、スーッと歩いて行く。
すると裏門の潜《くぐ》り戸が、これも人あって開けるかのように、音も立てずスーッと開いた。それを抜けて城外へ出る。犬を吠えず鶏も啼かぬ寥々寂々《りょうりょうせきせき》たる屋敷町を流星のように走り過ぎる。向かう行手は神宮寺であろう。その方角へ走って行く。
「さてこそ」と運八は思いながら、二間あまりの間隔を取りこれも負けずに直走《ひたはし》る。
町を抜けると野良《のら》である。野良の細道を二個の人影が、足音も立てずに走って行く。間もなくこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森へ出た。頼正は森の中へ走り込む。で、運八も走り込み、やがてその森を抜けた時には、頼正の姿は見えなかった。
「これはしまった[#「しまった」に傍点]」と呟いた時、一人の老婆が向こうから来た。何やら思案をしていると見えて、首を深く垂れている。
「ご老婆ちょっと物を尋ねる」
運八は切急《せっきゅう》に声を掛けた。「立派な若いお侍がたった[#「たった」に傍点]今この道を行った筈。そなた見掛けはしなかったかな?」
二一
老婆は返辞をしなかった。何やら音を立てて食っている。そうしてクスクス笑っているらしい。
「年寄りの分際《ぶんざい》で無礼な奴! これ返辞を何故しない」
右田運八は怒鳴りながら老婆の肩をムズと掴んだ。しかし老婆は返辞をしない。やはり俯向《うつむ》いて笑っている。そうして何か食っている。クックッと云うのは笑い声であり、ビチャビチャと云うのは物を食う音だ。
運八はいよいよ激昂《げっこう》し肩へ掛けた手へ力を入れた。と、その手がにわかに痲痺《しび》れ不意に老婆が顔を上げた。白金のような白髪を冠った朱盆のような赭《あか》い顔が暗夜の中に浮いて見えたが、口にも鼻にも頬顎にもベッタリ生血が附いている。両手でしっかり抱えているのは半分食いかけた生首である。切り口から血汐が滴
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