の》ずと了解されようと思う。
そうして実にこの事件は、この「八ヶ嶽の魔神」という、きわめて伝奇的の物語にとってもかなり重大な関係がある。したがって物語の主人公、鏡葉之助その人にとっても重大な関係がなくてはならない。
鏡葉之助の消息を一時途中で中絶させ、事件を他方面へ移したのもこういう関係があるからである。
信州諏訪の郡《こおり》高島の城下は、祭礼のように賑わっていた。
※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》と湛《たた》えられた湖の岸には町の人達、老若男女が湖水を遥《はる》かに見渡しながら窃々《ひそひそ》話に余念がない。
「船が沢山出ましたな」
「二十隻あまりも出ましたかな」
「漁船と異《ちが》って立派ですな」
「諏訪家の幔幕が張り廻してある」
「乗っておられるのはお武家様ばかりだ」
「お武家様と漁師とは遠目に見ても異いますな」
「しかし今度のお企《くわだ》てはちとご無理ではないでしょうかな」
「さあそれは考えものだ」
「いや全く考えものだ」
「噂によると神宮寺の巫女《みこ》が大変怒っているそうですよ」
「あいつらが怒るとちょっと恐い」
「名に負う水狐族《すいこぞく》の手合ですからな」
「今度は若殿も失敗かな」
「立派なお方には相違ないが、どうも血気に急《はや》らせられてな」
「それもこれもお若いからよ」
「ちと好奇心《ものずき》が過ぎるようだ」
「今度の企ても好奇心からよ」
「巫女達はきっと祟《たた》ろうぞ」
「これまで水狐族に祟られたもので、難を免れたものはない」
「恐ろしいほど執念深いからな」
「先祖代々執念深いのさ」
「それにあいつらは妖術を使う」
「切支丹《キリシタン》の秘法だそうな」
「切支丹ではない陰陽術《おんようじゅつ》だ」
「日本固有の陰陽術かな」
「そうだ中御門《なかみかど》の陰陽術だ」
「おや」と一人が指差した。「いよいよ若殿のご座船が出るぞ」
「どれどれ? なるほど、ご座船らしいな」
「若殿自らお指図《さしず》と来た」
「もしも水狐族が祟《たた》るなら、きっと若殿へ祟るであろうぞ」
「無論水狐族も恐ろしいが、それより私には明神のお罰が一層恐ろしく思われるよ」
「日本第一大軍神、健御名方《たけみなかた》のご神罰かな」
「これは昔からの云い伝えだが、諏訪法性の冑《かぶと》には、諏訪明神のご神霊が附き添いおられるということだ」
「ちゃあんと浄瑠璃《じょうるり》にも書いてある奴さ」
「二十四孝のご殿かね」
「……こんな殿ごと添い臥《ふ》しの身は姫御前《ひめごぜ》の果報ぞとツンツンテンと、つまりここだ」
「冗談じゃねえ、助からねえな。口三味線とは念入りだ」
「それからお前奥庭になってよ、白狐《しろぎつね》めが業《わざ》をするわさ。明神様の使姫《つかいひめ》は白狐ということになっているんだからね」
一六
「だんだんご座船が近寄って来る。だんだんご座船が近寄って来る」こう云って一人が指差した。
「船首《へさき》に立たれたのが若殿らしい」
「皆紅《みなくれない》の扇をば、手に翳《かざ》してぞ立ち給うかね」
「ほんとに扇を持っておられる」
「オーイオーイと差し招けば……」
「どっちだどっちだ、熊谷《くまがい》かえ? それとも厳島《いつくしま》の清盛かえ」
「どうも不真面目でいけないね。静かに静かに」と一人が云った。
で、人達は口を噤《つぐ》み、湖上を颯々《さっさつ》と進んで来る若殿のご座船を見守った。
今、ご座船は停止した。
諏訪|因幡守《いなばのかみ》忠頼の嫡子、頼正君は二十一歳、冒険|敢為《かんい》の気象《きしょう》を持った前途有望の公達《きんだち》であったが、皆紅の扇を持ち、今|船首《へさき》に突っ立っている。
そのご座船を囲繞《いにょう》して二十隻の小船が漂っていたが、この日|天《てん》晴れ気澄み渡り、鏡のような湖面にはただ一点の曇りさえなく、人を恐れず低く飛ぶ小鳥の、矢のように早い影をさえ、鮮かに映《うつ》して静まり返り、昇って間もない朝の陽が、赤味を加えた黄金色に水に映じて輝く様など、絵よりも美しい景色である。
東の空には八ヶ嶽が連々として聳《そび》え連なり、北には岡谷の小部落が白壁の影を水に落とし、さらに南を振り返って見れば、高島城の石垣が灰色なして水際《みぎわ》に峙《そばだ》ち、諏訪明神の森の姿や、水狐族と呼ばれる巫女の一団が、他人《ひと》を雑えず住んでいる神宮寺村の丘や林などあるいは遠くあるいは近く、山に添ったり水に傾いたり、朝霧の中に隠見《いんけん》して、南から西へ延びている。
しかし頼正は景色などには見とれようとはしなかった。じっと水面を見詰めている、いやそれは水面ではなく、水を透して水の底を、見究《みきわ》めようとしているので
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