あったが、幾《いく》十|丈《じょう》とも知れないほど深く湛えた蒼黒い水は、頼正の眼を遮《さえぎ》って水底を奥の方へ隠している。
 と、頼正は眼を上げて、二十隻の供船《ともぶね》を見廻したが、扇を高く頭上へ上げると、横へ一つ颯《さっ》と振った。
 すると、ご座船に一番近い一隻の船の船首から、裸体《はだか》の男が身を躍らせ湖水の中へ飛び込んだ。パッと立つ水煙り! キラキラと虹《にじ》が射したのは日がまだ高く昇らないからであろう。
 若殿頼正を初めとし、船中の武士は云うまでもなく、岸に群がっている町人百姓まで、固唾《かたず》を呑んで熱心に水の面を眺めている。
 飛び込んだ男は灘兵衛《なだべえ》と云って、わざわざ安房《あわ》から呼び寄せたところの水練名誉の海男《あま》であったが、飛び込んでしばらく時が経つのに水の面へ現われようともしない。しかし間もなく湖水の水が最初モクモクと泡立つと見る間に、忽《たちま》ちグイと左右に割れ、その割目から灘兵衛が逞《たくま》しい顔を現わした。プーッと深い呼吸《いき》をすると、水が一筋銀蛇のようにその口から迸《ほとばし》る。片手で確《しっか》り船縁《ふなべり》を掴み。しばらく体を休めたものだ。
 血気の頼正は物に拘《こだわ》らず、じかに灘兵衛へ言葉をかけた。
「どうだ灘兵衛、石棺はあったか?」
「なかなかもって」
 と灘兵衛は、潮焼けした顔へ笑《えみ》を浮かべ、
「泥は厚し、水草はあり、湖水の底を究めますこと、容易な業ではござんせん」
「いかさまそれは理《もっと》もである……しかし、どうだな、ありそうかな?」
「二日、三日ないしは五日、どのように水を潜ったところで、※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》と広い湖のこと、そんな小さな石の棺、あるともないとも解りませぬ。が、私《わっち》の感覚《かん》から云えば、まずこの辺にはござんせんな」
「うん、この辺にはなさそうか。ではどの辺に埋もれていような?」
「それが解れば占めたもの、心配する事アござんせん」
「ではそれも解らぬかな」頼正の顔は顰《ひそ》んで来た。
「確かなところは解りませんな。……とにかくもう少し西南寄り、神宮寺の方で潜って見やしょう」
「そうか。よし、船を廻せ!」
 頼正は漕ぎ手に命を下す。
 ギーと艪《ろ》の軋《きし》る音がして、船隊は船首《へさき》を西南に向けた。若殿のご座船を先頭にして神宮寺の方へ進んで行く。
 見ていた湖岸の連中は、ここでまたひそひそと噂し出す。
「神宮寺の方へ行くようだね」
「これはどうも物騒《ぶっそう》千万、死地へ乗り入《い》ると同じようなものだ」
「死地に乗り入るは大袈裟だが、どうも少々心なしだな」
「水狐部落の巫女どもに悪い悪戯《いたずら》でもされなければよいが」
「あいつらと来たら無鉄砲だからな。ご領主であろうと将軍様であろうと、そんな物には驚きはしない」
「何か事件が起こらなければよいが」
「そうだ、何か悪い事件がな」
「あの濶達《かったつ》な若殿様が、そのためご苦労するようではお気の毒というものだ」
 船隊はその間に岬を廻り、すっかり視野から消えてしまった。

         一七

 若殿のご座船を先頭に、二十隻の船は駸々《しんしん》と、湖水の波を左右に分け、神宮寺の方へ進んで行ったが、やがて目的の地点まで来ると、頼正は扇で合図をした。二十隻の船はピタリと止まる。
 ここ辺りは入江であって、蘆《あし》や芒《すすき》が水際に生《お》い、陸は一面の耕地であり、所々に森があったが、諏訪明神の神の森が、ひとり抽《ぬき》んで、聳《そび》えているのは、まことに神々《こうごう》しい眺めである。
 その神の森を遠く囲繞し、茅葺《かやぶき》小屋や掘立小屋や朽葉色《くちばいろ》の天幕《テント》が、幾何学的の陣形を作り、所在に点々と立っているのは、これぞ水狐族と呼ばれるところの、巫女どもの住んでいる部落であった。炊《かし》ぎの煙りが幾筋か上がり、鶏犬の啼き声が長閑《のどか》に聞こえ、さも平和に見渡されたが、しかし人影が全く見えず、いつもは聞こえる人の声が、今日に限って聞こえないのは、決して平和の証拠ではない。
 船の上から頼正は水狐族の部落を眺めていたが、たちまちその眼を湖上へ返すと、颯《さっ》と扇を頭上に上げた。とたんにドブンという水の音。灘兵衛が水中へ飛び込んだのである。見る見る湖面へ波紋が起こりそれが次第に拡がって行く。
「さて今度はどうであろう? 石棺の在所《ありか》は解らずとも、手懸りでもあってくれればよいが」
 頼正は船首《へさき》に突っ立ったままじっと水面を窺《うかが》った。
 突然彼は「あっ」と叫んだ。彼の視線の落ちた所、蒼々《あおあお》と澄んでいた水の面がモクモクモクモクと泡立つ
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