の魔神」というこの物語の主人公なのである。
 いでや作者《わたし》は次回においては、この猪太郎の身の上について描写の筆を進めると共に、全然別種の方面に当たって別様の事件を湧き起こさせ、波瀾重畳幾変転《はらんちょうじょういくへんてん》、わが親愛なる読者をして手に汗を握らしめようと思う。
 これまで書き綴《つづ》った物語はほんの全体の序曲に過ぎぬ。次回から本題へ入るのである。

   高遠城下の巻

         一

「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よいかも知れませんな」
「よろしくないのでございましょうか?」
「さよう、よくないかも知れませんな」
「では、どちらなのでございましょう?」
「さよう」
 と云ったまま返辞をしない。
 奥方お石殿は不安そうにじっ[#「じっ」に傍点]とその様子を見守っている。それからまたも聞くのであった。
「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よろしいかもしれませんな」
「よろしくないのでございましょうか」
「奥!」
 と良人《おっと》弓之進は見兼ねて横から口を出した。
「先生には先生のお考えがある。そういつまでもお尋ねするはかえって失礼にあたるではないか」
「はい。失礼致しました」お石はそっと涙を拭きつつましく[#「つつましく」に傍点]後《あと》へ膝を退《の》けた。
 部屋の中がひとしきり寂然《しん》となる。
「ちょっとお耳を……」
 と云いながら蘭医《らんい》北山《ほくざん》が立ったので続いて弓之進も立ち上がった。二人は隣室へはいって行く。
「あまり奥方がご愁嘆《しゅうたん》ゆえ申し上げ兼ねておりましたが、とても病人は癒《なお》りませんな」
「ははあ、さようでございますかな。定命《じょうみょう》なれば止むを得ぬこと」
「蘭学の方ではこの病気を急性肺炎と申します。今夜があぶのうございますぞ」
「今夜?」とさすがに弓之進も胆《きも》を冷やさざるを得なかった。
「いずれ後刻、再度来診」
 こう云って北山の帰った後は火の消えたように寂しくなった。
 二人の中の一粒種、十一歳の可愛い盛り、葉之助は大熱に浮かされながら昏々《こんこん》として眠っている。
「もし、ほんとに死にましょうか?」お石はほとんど半狂乱である。
「天野北山は蘭医の大家、診察
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